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天皇の御歌(49)―第108代・後水尾天皇(3) [後水尾天皇(明正天皇)]

DSC_0662白花20201020blog.JPG今日も、第108代・後水尾(ごみずのお)天皇の御歌を学びます。3回目です。
御在世:1596~1680(崩御・85歳)
御在位:1611~1629(16歳~34歳)
です。(1617年まで、御父・後陽成天皇の院政)
御水尾天皇は御退位後も院政をお執りになり、その期間は1629~1680年(34歳~85歳)、51年間に及びました。

今日の御歌は御年37歳の時のものです。後水尾天皇の御譲位は34歳の時ですから、譲位後3年目、第109代・明正天皇の御代の時に詠まれている御歌です。

☆☆☆

“峰照射(寛永九年―一六三二―御年三十七歳)

明くる夜を 残す影とや 木のくれの 繁き尾上に ともしさすらし(聖廟御法楽)

秋里(同右)

秋さむき おのがうれへや わびかはす 暁ちかき しづがいへいへ(聖廟御法楽)

寄社祝(同右)

九重の ためならぬかは まもれたゞ 天津やしろも 国津やしろも(聖廟御法楽)

停年月(同右)

なかぞらに 月やなるらむ 呉竹のすぐなる影ぞ まどにうつれる

速(同右)

あづさ弓 いるにも過ぎて としごとに こぞ(去年)にさへ似ず 暮るる年哉(かな)

(pp232~233)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首―』日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

言葉の意味

峰:「み」は接頭語。「ね」は山の頂。山を神域とみていう語》、山の頂上。山頂。

影:かげ 【影・景】 (日・月・灯火などの)光

木のくれ(このくれ):木の暗れ・木の暮れ、木が茂ってその下が暗くなること。また、その時節・所。

尾上(おのえ、おのうえ、おがみ):「峰 (を) の上 (うへ) 」の意、山の上、山頂のこと。 また日本の苗字、地名。

ともし:ともし火。灯火。 明かり。

さす:「点す」、「射す」、まっすぐに光が照り入ること

わび:わびしく思うこと。気がめいること。気落ち。悲観。嘆き。悩み。

かはす:互いに通わせる。 やりとりする。

しづ:身分の卑しい。

しづがいへいへ:身分の卑しい人の家々

聖廟(せいびょう):聖人をまつった廟。日本では菅原道真をまつった廟。 特に京都の北野天満宮をいう。

御法楽:仏法を味わって楽しみを生じること。神仏を楽しませること。(「法楽歌」は、神仏に捧げる短歌)

九重(ここのへ):(ものが)九つ重なっていること。また、幾重にも重なっていること。 宮中。皇居。内裏(だいり)

かは:だろうか

天津やしろ、国津やしろ:天津神の社、国津神の社
*天津神は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称、国津神は地(葦原中国)に現れた神々の総称

なかぞら:空の中ほど

あづさ弓:枕詞、弓を引き、矢を射るときの動作・状態から「ひく」「はる」「い」「いる」にかかる

1首目。夜が明けて灯火が残っているが、木の茂ったところの先に、峰を照らす日光がほのかに射してきた 

2首目。秋の里で、秋の寒さに自分の心配ごとをわびしく語り合っているのだろうか。身分の低い人の家々では。

3首目。宮中のためだけでなく、天津神のやしろも、国津神のやしろも、わが国を守り給えと祈る

4首目。空の中ほどに月があらわれたのだろうか。呉竹(くれたけ)のまっすぐな影が障子窓に映っている。

5首目。弓を射るように、年ごとに、去年と同じでなく、速くも年の暮れになってしまったことよ


徳川幕府の天皇の権威を、幕府の権力を強めるために利用する計画について、昨日、①外戚策と②法度で天皇を縛る、という2つの方法を取ったと書きました。昨日は②の「法度」で天皇を縛る方法について述べました。①の外戚策とは、後水尾天皇に、第2代将軍・徳川秀忠の娘和子(まさこ)を入内させたことを指します。

将軍・秀忠と江(ごう。お江与の方、崇源院(すうげんいん))の間に生まれた和子(まさこ)が6歳の時、1612年から御水尾天皇にとつぐための朝廷と幕府の交渉が始められましたが、なかなかまとまらず、1620年にやっと輿入れが実現しました。後水尾天皇は26歳、和子は14歳でした。

和子は聡明で心の優しい女性で、後水尾天皇との仲は、円満でした。

が、この結婚の後、9年後(1629年)に、紫衣事件が起こり、後水尾天皇の前ぶれなしの突然の譲位が執り行われました。

1629年(寛永6年)11月8日のことでした。当日の朝、朝廷からの口頭による連絡で、正式の装束を着用して御前に集められた貴族たちに、天皇の譲位が伝えられました。貴族たちにも、寝耳に水のできごとであり、もちろん幕府への通知は一切なく、譲位は決行されました。(高森明勅著『日本の十大天皇』pp359~360)

後水尾天皇の譲位の理由について、『細川家資料』には、幕府に報告書を提出した細川忠興の証言として、次の5つが挙げられています。

1、 貴族らに官位をさずけるにも、幕府の介入があって思うにまかせないこと。
2、 財政の収入・支出とも幕府にガッチリにぎられていること。
3、 皇室担当の武家の役人があまりの財源を天皇につかわせないどころか、私腹をこやすために民間に貸し付けて金利をむさぼっていること。
4、 紫衣事件へのいきどおり。天皇の勅許が一挙に70、80もくつがえされたこと。
5、 「隠し題」

「隠し題」とされた5、は、正妻である和子以外、つまり側室が生んだ子どもたちが、生まれたはしから、所司代が手を回して殺したということでした。

所司代:江戸時代に、京都に置かれた職。朝廷に関する事務や、京都・近畿(きんき)地方の民政などをつかさどった。京都所司代

むごい話ですが、当時の上流武家のあいだではふつうにおこなわれていたようです。

後水尾天皇の御子は、和子との結婚以後、譲位するまでのあいだ(1620~1629年)、5人生まれていますが、すべて和子の御子ばかり。ところが、譲位後は、側室から合計22名もの御子が次々と生まれています。どう見ても不自然で「隠し題」は事実だったと判断されます。しかしこのような残酷な風習は皇室や貴族のあいだにはありませんでした。天皇にとって耐え難いことだったにちがいありません。

この5つの理由によって、天皇の〝レジスタンス〟としての譲位の決意はゆるがぬものでした。

以上は、前掲書『日本の十代天皇』(pp365~368)を参考にさせていただきました。

なお、10月17日のブログで、中宮和子との間のお子様を6人と書きましたが、7人(2男5女)の誤りでした。17日の文章も訂正しましたので、ご了承ください。


話が横に飛びますが、日本の平成30年度(2018年度)の年間人工妊娠中絶数は、公式発表で16万2千人とのことです。文明国として憂うべきことですが、後水尾天皇の御ことを学ばせていただきながら、色々と調べたところ、江戸時代も、薬による中絶や誕生後間もない嬰児殺しは少なくなかったことを知りました。現代だけの問題ではないことを、考えさせられました。


江戸幕府の朝廷抑圧の問題について取り上げましたが、行き過ぎがあったとしても、江戸幕府の徳川家康も、二度と戦国時代に戻る事のない太平の世を築こうと、必死であったことと思います。その努力を後世の人間が一方的に断罪することはできませんが、問題点を学び、現代に通じるものがあれば、その知識と経験を生かすことは、必要であると思います。


今日も読んでいただき有難うございました。

今日は、朝は冷えましたが、秋晴れの気持ちの良い一日になりそうです。お元気にお過ごしください。

タグ:明正天皇
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