天皇の御歌(16)-第41代 持統天皇 [持統天皇]
今日は持統天皇の御歌(おうた)を読みます。持統天皇の御歌は2回目です
昨日の朝は、なぜか夢の中に、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」という言葉が目の前にチラチラして、調べたらこういうことでした。
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“天武天皇がまとめようとしていた古代国家の基本法典である「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が施行されたのも、この年(689年)だった。”
(高森明勅著『歴史で読み解く女性天皇』P154 ベスト新書)
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「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)には、以下のように説明されています。
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“飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。令22巻。律令のうち令のみが制定・施行されたものである。日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。”
(「飛鳥浄御原令 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%B5%84%E5%BE%A1%E5%8E%9F%E4%BB%A4)
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どうやら、寝る前に読んだ高森明勅氏の本の影響で、689年には飛鳥浄御原律令が施行されという言葉が、寝ている間、頭脳の中で、リフレインを繰り返していたようです。
なお、「律令」というのは、律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当するとのこと、刑法よりも、行政法が先に制定されたのですね。
飛鳥浄御原令は、この後、大宝律令、養老律令と変化して、最後の養老律令は、廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続したとのことです。その息の長さにおどろきました。
日本は、平安時代から、明治時代に至るまで養老律令を存続させたように、法律を長く持ち続ける国柄があるのでしょうか。
私の唐突な思いつきですが、現代でも日本国憲法がなかなか改正されないのは、こんな先祖伝来の習慣があって、そういう体質の国なのかと、ふと思いました。
今日の御歌は、天武天皇が崩御(ご逝去)されたときに詠われた御歌です。ちょっと寂しいけれど、肉親との別れは、誰にでもいずれ訪れることですね。
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一書に曰(い)はく、天皇(すめらみこと)崩(かむあが)りましし時の大上天皇(おおきすめらみこと)の大御歌(おほみうた)二首(*持統天皇は御譲位の後、大上天皇の称号でお称び申し上げた)
燃ゆる火も 取りて裹(つつ)みて 袋には 入ると言はずや 面(おも)知らなくも
北山に たなびく雲の 青雲の 星離(さか)り行き 月を離(さか)りて
(以上、萬葉集、巻第二)
(p49)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著 『歴代天皇の御歌 ― 初代から今上陛下まで二千首 - 』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)
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御歌の今日の解説は、山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』から、お借りします。
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“燃ゆる火も、取って包んで紙の袋の中に入れることができるといふではないか。そんな奇蹟すらも行はれるのに、どうして、神去りましたわが大君に再びお会ひできる道を、知ってゐると言ってくれないのか”
“北の山のあたりにたなびいてゐる雲、その青雲が、いつか北の山を離れ、星を離れ、月を離れて遠ざかって行く。そのやうに、あなた様がだんだん遠く、いよいよ遠く離れて行っておしまひになる。ああ、どうすることもできないのであらうか“
(山口悌治著『万葉の世界と精神 前篇』p276 日本教文社)
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1首めは、燃える火を紙の袋の中に入れることができるという伝承が、当時あったのでしょうか。今は聞きませんね。
もう会うことのできない天武天皇に、もう一度でもお会いできるすべはないものだろうかという、切ないお悲しみが伝わって参ります。
2首めは、北山という地名が吉野にあるので、もしかしたら、持統天皇は、その北山のあたりを見つめながら、壬申の乱の前に、天武天皇とご一緒に、ひっそりと過ごされた吉野山中での日々を、思い出されていたのではないかと拝察いたします。
その北山から、天武天皇の魂であるかのような青雲が、星(皇子孫、重臣たち)を離れ、月(持統天皇))を離れて、いよいよ遠ざかって行かれる、そのような思いを詠われたと存じます。天空にとどまる山、星、月と、流れて遠く消えていく青雲のはかなさ、美しさが心に残ります。
星が皇子、皇女、皇孫、重臣で、月が持統天皇、というのは私の勝手な解釈ですが、そういう感じがいたします。
今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって、穏やかな一日でありますようお祈り申し上げます。
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