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天皇の御歌(77)―第82代・後鳥羽天皇 [後鳥羽天皇]

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今日は、第82代・後鳥羽天皇の御歌を学ばせていただきます。

御世位:1180―1239(崩御・60歳)
御在位:1183―1198(4歳~19歳)

(1192年まで御祖父・後白河法皇の院政が続く)
[以下における院政期間 1198~1221(19歳~42歳)]
第83代・土御門天皇の御在位期間
第84代・順徳天皇の御在位期間
第85代・仲恭天皇の御在位期間

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、来週が最終回となりました。最終回は承久の乱で終わるようですね。


☆☆☆

“第八十一代・安徳天皇は、第八十代・高倉天皇の第一皇子(御母は平清盛女・徳子=建禮門院)であられるが、御年三歳で践祚、御在位六年、御年八歳で平家の人々と共に、長門(ながと)の壇の浦に入水(じゅすい)せられた。まことに悲劇的な御生涯であられた。
(中略)
(安徳天皇の御陵墓は、山口県下関市阿弥陀町にあり、阿弥陀陵(あみだのみささぎ)(円墳))と申し上げ、御霊は祖茂の籍の赤間神宮に祀られてある。)
(中略)
第八十二代の後鳥羽天皇は、第八十代・高倉天皇の第四皇子。安徳天皇の御西下により
御年四歳で践祚されたが、御譲位の御年も、わづか十八という御若さであられた。しかし、土御門・順徳・仲恭三天皇の「院政」をおとりになったので、実質的には、三十九年間にわたる御政治をなさったことになる。しかしながら、源頼朝の死(一一九七)後、鎌倉幕府の実権は、執権・北条氏の手に握られるやうになり、朝廷の政権も鎌倉の手に移り、遂に「承久の変」に敗れたまひ、後鳥羽上皇は沖ノ島に遷され、十九年の歳月を孤島に過ごされ、延応元年(一二三九)六十歳で亡くなられた。まことに御痛ましいことであった。なお後鳥羽院は、宮中に「和歌所」を再興(一二〇一)して藤原定家(ていか)らに「新古今和歌集」を撰せしめられ、隠岐に赴かれた後も自ら「新古今和歌集」の切継を続行せられ、和歌の世界になみゝならぬ情熱をそそがれた。ご自身も二千首を超える和歌を遺してをられ、歌論書に「後鳥羽院御口傳」が残されてゐる。
なほ、頼朝は平氏滅亡の年に早くも「守護地頭」を置き(一一八五)、欧州を征伐し(一一八九)、「公文所」を「政所」に改め(一一九一)、征夷大将軍に任ぜられる(一一九二)、など、幕府の体制は着々と整備されて行った。
また、文化面では、僧、榮西が帰国して「臨済宗」を日本に伝へた(一一九二)のも、後鳥羽天皇の御代のことであった。
(御陵墓は、京都市左京区大原勝林院町にあり、大原陵(おおはらのみささぎ)〔十三重搭〕と申し上げる)”(p111~113)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


後白河上皇の院政の後に、院政を執り行われた後鳥羽上皇は、次に掲げる百人一首の和歌でも知られています。こうして、その御生涯を読み返すと、波乱万丈の人生を送られたことと拝察されます。


☆☆☆

“述懐(建暦二年-一二一一))

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世をおもふゆゑに 物おもふ身は“
(p115)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

隠岐の島に流された後の御歌かと思いましたが、意外にも、承久の乱の10年前の御歌でした。

“「新古今和歌集」の切継”とありました。切継の意味が良く分からなかったので、調べてみました。

切継:② 勅撰和歌集などで、撰歌後部分的に取捨、訂正を行なうため、削除したり増補したりすること。「新古今集」は後鳥羽院の手によって数回にわたり行なわれた。
(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%88%87%E7%B6%99%E3%83%BB%E5%88%87%E6%8E%A5-2030140

今で言えば、編集者のようなお仕事をされたのでしょうか。

政治の第一線から離れることを余儀なくされた後、“和歌の世界になみゝならぬ情熱をそそがれた。ご自身も二千首を超える和歌を遺してをられ、歌論書に「後鳥羽院御口傳」が残されてゐる。”とのことで、歴史に名を遺されたのは、後鳥羽院の優れた御事績だと存じます。


今日は、後鳥羽上皇の御歌3首を、学ばせていただきます。

☆☆☆
祝(建仁元年-一二〇一-内宮御百首)

四方の海の 浪に釣するあま人も をさまれる代の 風はうれしや


雑(同)

昔には 神も佛もかはらぬを くだれる世とは ひとのこころぞ


寄山雑(承元四年-一二〇八-住吉御歌合)

おく山の おどろが下も ふみわけて 道ある世ぞと 人に知らせむ
(*おどろ=草木の乱れ茂りあってゐるところ)

(pp113~114)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

四方の海:四海(しかい)
四海:1 四方の海。よものうみ。2 《四方の海の内の意》国内。世の中。天下。また、世界。「―を掌握する」「―同胞」3 仏語。須弥山 (しゅみせん) を取り巻く四つの外海。
(goo辞書)
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B5%B7/

あま人:
あま 【海人・海士・蜑】①海で魚や貝を採ったり、塩を作ることを仕事とする人。漁師。漁夫。(Weblio古語辞典)
https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%81%BE

神祇(じんぎ):① 天神(てんしん)と地祇(ちぎ)。天つ神と国つ神。天地の神々。(コトバンク)


[大意]

1首目
海の浪に釣りする猟師も おさまった世の中の 風がうれしいだろう

2首目
昔には神も佛もかわっていないが 落ち目になるのはひとのこころによるものなのだろう

3首目
深い山の草木が乱れているところも踏み分けて道理のある世であると人々に知らせよう

[感想]

それぞれ、承久の乱(一二二一)年以前の御製です。

1首目

一二〇一年は平穏だったのかと言えば、そうでもなく、越後平氏の一族、城 長茂(じょう ながもち)による建仁の乱が起きています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
建仁の乱は、一二〇一年5月に鎮圧されたので、その後の御製ではないかと拝察いたします。

2首目

朝に夕に神を祀られる天皇は、神も佛も御代の根底に、世の移り変わりに左右されることなく変わらないという信念をお持ちだと拝察いたします。時代によって、移り変る人の心が、さまざまな争乱をもたらすと、見ていらっしゃるのではないでしょうか。

3首目

人と人が争う不条理が展開する世の中、正しい道理の通らない、混沌とした世の中を前に、変わらずにあるはずの道理を見出したいとの強い御意志が感じられます。


現代では、権威と権力が、天皇、政府と、はっきりと分かれています。鎌倉時代には、権威と権力が共に朝廷にあった時代が行き詰まり、権力が武家政権に移った時代だったと思います。権威と権力が距離を置くというのは、日本の歴史上、必要な事だったのかも知れません。そのため承久の乱で、後鳥羽院側が敗北されたではないでしょうか。

今年は色々なことがありました。3年越しの新型コロナのパンデミック、ウクライナ紛争、自民党と統一教会の問題など。様々な問題がありますが、歴史を長いスパンで見れば、必ず解決できると思います。


今日も読んでいただき有難うございました。
寒さが厳しくなってまいりました。年末、御多忙の折、お身体に気をつけてお過ごしください。皆様にとって楽しい日々でありますことをお祈り申し上げます。

タグ:御製
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愛子様を天皇に、国民運動 [皇室典範改正]

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昨日20時からニコニコ生放送で配信された小林よしのり氏、泉美木蓮氏の「よしりん、もくれんのオドレら正気か?」を視聴していて、小林よしのり氏の言葉に、眼からウロコが落ちる思いでした。魂が激しくゆさぶられました。


「愛子天皇への道」サイトにもそのことが書かれています。「よしりん先生」は、小林よしのり氏のことです。


☆☆
“その中でよしりん先生は、皇位継承問題について

「政治家に何とかしてもらおう、やってもらおうっていう感覚は、もうやめようや。」

「国民は本当は80%愛子さまがいいのよ。
それならば、国民で団結した方がいいし、国民を我々が引っ張った方がいい。」


「政治家は、票になると思ったら来るんだから。
だからむしろ向こうが、ゴー宣道場で(皇統問題を)やるっていったら「自分も参加させてください」っていうくらいにならなきゃダメなのよ。」

「今の門下生たち、今の公論メンバーを見てたら、(国民運動を作ることは)できる!」

と発破をかけられました。“

(「来年は愛子さま祭り!私たちで国民を引っ張っていこう!」)
https://aiko-sama.com/archives/21063
☆☆


今日のゴー宣ネット道場ブログで、小林よしのり氏は、昨日放送で話したことを文章で、宣言しています。

☆☆
“国会議員を生み出すのは国民だから、我々国民に主権が
あるはずだ。
国会議員を育てる責任も国民にある。

なのに当選した途端に、国民は議員を「先生」とあがめ、
「お上」意識で議員を甘やかす。

「票にならない」から議員は皇統問題には関心を持た
ないと言うが、国家国民の「象徴」が続くか否かのことで、
そんな馬鹿なことが許されるはずがない。“

(「愛子さまを天皇に、国民運動」)
https://www.gosen-dojo.com/blog/37938/
☆☆


この言葉で、国会議員に頼るという、自分の先入観が崩されました。この言葉を聞いたとき、自分は歴史的瞬間に立ち会っているという感じがしました。その感動を、書き留めておきたいと思い、このブログを書いています。


〇国民の80%が、愛子さまに次の天皇になっていただきたい。それは皇室の方々の願いにも一致している。
〇しかし、自民党の「男系派」は、それをかたくなに阻止しようとしている。野党でも愛子さまを天皇にと本気で取り組む党は、一つも無い。
〇現状を打破するには、80%の国民の願いを顕在化して、愛子さまを天皇にすることが、国会議員の得票につながるほどに世論が高まらねばならない。
〇そのために、ゴー宣道場が、全力で取り組む。
〇時間は限られている。後、2年。


なんとスケールの大きい話でしょう。けれども歴史の必然だという思いがひしひしと迫ってきます。

国民主権、民主主義とは何なのかということも、考えさせられます。(国民主権といっても、国民と天皇が一体なのが日本国家ですから、「国家主権」という方が正確かも知れません。ここでは便宜上、国民主権としています)

唐突な感じになり、これまでの経過を説明しないと分かりにくいところがあるかも知れません。けれども、「歴史的瞬間に立ち会った」という思いで、記録を残すために、今日のブログを書かせていただきました。


今日も、読んでいただき、ありがとうございました。
師走になり、雨交じりの寒い1日です。最近は、ゆたんぽとホカロンのお世話になっています。皆様も、お身体にお気をつけて、どうぞ暖かくしてお休みください。

タグ:国民運動
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皇后陛下、お誕生日おめでとうございます [皇后陛下]

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今日は、皇后陛下(雅子さま)の59歳のお誕生日です。心よりお祝い申し上げます。

ビデオを拝見しました。天皇陛下と微笑みを交わされるお姿に心が洗われる思いです。いつでも、天皇陛下を支えていらっしゃることが、感じられます。

私も国民の一人として、悲しい時、苦しい時、皇后陛下、天皇陛下、愛子内親王のお姿を拝見すると、それだけで、悲しみ、苦しさが消えて、癒されます。とても不思議です。

令和4年皇后陛下のお誕生日に際してのご近影(ビデオ)
https://www.kunaicho.go.jp/activity/gokinkyo/02/r04-1209-mov.html


「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」を読ませていただきました。

☆☆☆
“この1年は、コロナ禍(か)も続く中、国際的な紛争や、世界各地での自然災害などが重くのし掛かり、心が痛むことの多い年であったように感じます。”
(「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」)
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/58
☆☆☆


3年越しの新型コロナによる各種規制、2月からのウクライナ戦争、7月の安倍元総理襲撃事件、事件をきっかけに露呈した統一教会問題、時代が急展開を迎えているように思われます。

皇后陛下は、さらに世界的な視野で、水害や地震などの大きな災害に、着目されています。一人一人が、気候変動対策など、持続可能な世界を築くことに、眼を向ける必要性が感じられます。

☆☆☆
“水害や地震などの大きな災害も起きており、パキスタンでは、夏の期間の豪雨により国土の約3分の1が水に浸つかり、全人口の約15パーセントに当たる3,300万人が被災したと聞きます。洪水や干ばつによる被害は、ほかのアジアの国々やオーストラリア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカなど、世界各地で起きており、気候変動対策が急がれます。今後、持続可能な世界を築いていくためには、世界の人々が知恵を出し合い、共に手を取り合って、協力していくことが急務であると感じます。”
(「皇后陛下お誕生日に際してのご感想」)
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/58
☆☆☆

人類全体も、大きな岐路に立っている、それを乗り越えるために、知恵を出し合い、共に手を取り合うことを、願っておられます。


医師団の発表によれば、皇后陛下は治療中であり、ご回復の途上にあるとのこと、御快癒をお祈り申し上げます。

☆☆☆
“皇后陛下には、これまで同様、周囲の方々の理解と支援をお受けになりながら御治療を続けていただくことが大切ですので、引き続き温かくお見守りいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。”
(「皇后陛下のお誕生日に際しての医師団見解」)
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/d-kenkai-r041209.html
☆☆☆


29年と半年前、29歳と半年の、雅子さまは、天皇陛下の伴侶となられました。一般庶民でいらした雅子さまが、皇室に入られ、皇后陛下となられ、天皇陛下と心一つに、国民と喜びも悲しみと共にされるお立場を選ばれました。婚姻の神秘ということを、深く考えさせられます。

将来、愛子さまがご結婚なさり、お相手が一般庶民であっても、同じことだと思います。伴侶となられる男性が“婚姻の神秘”を経て、立派な皇族になられることと信じております。

今日も読んでいただき有難うございました。
皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
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男子を産めという価値観 [皇室典範改正]

20220917blogDSC_2164.JPG前回は、心の師藤原敏之先生の思い出をつづりました。著書を読み返して、予想しなかった文章に突き当たりました。今取り組んでいることに深く関わりがあるので、そのことを今日は述べたいと思います。

藤原敏之先生は明治41年(1908)生まれです。お姉さんが3人続いた後に生まれた、祖母待望の男の子でした。明治の家庭の空気が感じられる、藤原先生の文章を引用します。


☆☆

”私は姉が三人つづいて生まれた後の四番目に生まれた長男だったのです。今と違って長男は跡取りといって、家の後継ぎ者として大変重宝がられたものですが、ことに私の場合、姉三人でもう跡継ぎはないのではないかと思っていたときだけに(中略)私への期待と歓迎ぶりは大変なものであったというのであります。
(中略)
当時、祖父は亡くなってもういなかったのですが、祖母があり、家の中ではかなり権力を持っておられ、母はいつも遠慮し、気兼ねを強いられていたようです。一人目の姉のときは、それでも初孫ということで一応喜ばれ、祝福されたそうですが、二人目の姉のときから、段々と祖母の機嫌がわるくなり、母への風当たりが厳しくなりはじめたというのです。「三人目こそ男!」と期待していたところ、三人目もまた女の子というので、祖母は母を露骨(あらわ)に責め、病室でまだ寝ている母にわざと聴こえるように、「才吉(私の父)はかわいそうなものだ。かかり子も生まれない女子(おなご)腹でッ……」とどなるのだそうです。(中略)
四人目の私のとき、母は「もしもまた、この子が女の子だったらどうしよう」と処刑を待つ囚人のように、生きた心地がしなかったといっていました。そこへ私が生まれて来たのですから、私の誕生がどんなに喜ばれ、歓迎されたかは御想像にお任せするとして、子供の誕生を喜び、祝福しない家はないと思いますが、私の場合はそんな事情の所へ生まれてきたのですから、母はお産婆さんから「坊ちゃんですよ」ときかされたとき、「やれ助かった!」と手を合わせ、泣いたということです。
それからというもの、祖母はまるで人が変わったように、いつもニコニコしたやさしいおばあちゃんになり、とりわけ私をみるときには、相好(そうごう)をくずして、「よう来た、よう来た」とって喜んでいたそうです。(中略)母はそれ以後、鬼の首でもとったような、まるで凱旋将軍のごとく晴れ晴れとした心持ですごせたと話しておりました。”
(藤原敏之著『あなたは必ず救われる』(pp10~11) 日本教文社)

☆☆


私の身近にも、女の子3人目に生まれた女性があります(昭和初期生まれ)。女の子の父親は、誕生当時、遠隔地にいたのですが、女子誕生を知らせた電報の返信が「マタ オンナカ」だったと、いつまでも語り草になっているそうです。ある時、その女性に「女に生まれて良かったと思いますか?」と聞いたところ、「よかったと思ったことはない。ただ与えられた人生だから精一杯生きようと思った」と聞いて、胸を突かれる思いでした。

藤原敏之先生は、上記の文に続けて、次のように述べています。


☆☆

“人間がこの世に生まれるということは、決して人間業ではなく、人間の力や都合によるものでもなく、すべて神様の御意(みこころ)によるもので、神様の御計画に基づくものですから、人間の都合で喜んだり、厄介扱いするなどはまちがっています。祝福され、喜ばれて生まれて来た子は必ず幸せになります”

(藤原敏之著『あなたは必ず救われる』(p11 日本教文社)

☆☆


男だから、女だからではなく、生まれた子供が等しく祝福される世の中であってほしいと思います。この問題は、私が取り組んでいる女性天皇、女系天皇、女性宮家を認める皇室典範改正にも、深くかかわっています。矢部万紀子さん(1961年生まれ)というコラムニストが、著書『雅子さまの笑顔』で「皇室は、必ず男子を産まなければならないのか」と、述べています。


☆☆

“それは二〇一九年(令和元年)十一月五日の朝だった。テレビを何気なくつけると、「羽鳥慎一モーニングショー」が皇位継承問題を取り上げていた。作家の竹田恒泰さんが神武天皇以来の「男系男子」を守るべきで、「旧宮家の皇籍復帰」で安定継承はできると述べていて、保守派のいつものそれだった(中略)だが、聞こえて来た一人のコメンテーターの意見に驚いた。
弁護士の菅野朋子さんがこう言っていた。
「私が一つ申し上げたいのは、女性・女系天皇を認めないということがどれほど女性にとって苦痛か、女は男を産まなければいけないんですか。そこを強いられることになるんですよ。」(p199)”

“「今は一人の女性だけだが、どこかで(男子が)生まれればいい」ので旧宮家復帰なら大丈夫。そういう趣旨を語る竹田さんに、菅野さんは「女性にとって男子を産まなくては認められない。そのことを突きつけられる。その価値観というものは、今は国民になかなか受け入れられないのではないですか」と反論していた。(p200)”

(矢部万紀子『雅子さまの笑顔 いきづらさを超えて』幻冬舎新書)

☆☆


矢部万紀子さんは、もっと菅野さんの意見を知りたくなって、インタビューに行き、より掘り下げた意見を次のように、記しています。

☆☆

“菅野さんの思いには二つの視点があった。
ひとつは、皇后という立場の人を視る視点。菅野さんは「国民統合の象徴」は天皇だが、皇后という存在は「みんなの憧れ」「お手本」であり、「女性のあるべき姿」のようにとらえられていると、整理した。「あるべき姿」を示す人が男子出産を強いられれば、日本はそういう国なのかと女性たちは思う。そういう価値観があること自体が重たい、と。
もう一つは。隣人としての雅子さまという視点だ。(中略)
「例えば友人から「男の子を生んでほしいと言われた」と聞けば、多くの女性は自分の話のように受け取り、嫌な気持ちにあると思います。それができないと、女性として否定される。直感的にそう思うはずです。」(中略)
「国民統合の象徴が男性だけというのは、「女性差別」。これは男性もわかるだろう。けれども「絶対男の子を生まなくてはならない」ことが、どれだけプレッシャーか。そのことは、おそらく女性にしかわからないだろう、と。
相撲や歌舞伎など「男性だけ」の文化があることは理解する。だが、相撲は「継ぐ」ものでなく、歌舞伎は「継ぐ」人もいるが、そうでない人もたくさんいる。なのに「皇后になる方だけが『男子の後継者』を産む役割を堂々と背負わされている」と菅野さん。(中略)
話は、愛子さまのことにも及んだ。愛子さまは、「お母さんが批判されるのは、自分が女の子だからなんだ」と自分を責めていただろう。菅野さんは、そう見ていた。
二〇一六年(平成二十八年)、十五歳になった愛子さまが極端にやせ、拒食症が心配されたことがあった。(中略)
菅野さんは、自分が摂食障害になったことがあり、始まりは自己否定感だったと語った。愛子さまに自分を否定する理由など見当たらない。だからあの時の愛子さまは、「『男の子でない』」ことの葛藤」があったろう、と菅野さん。
愛子さまが生まれた時のことをよく覚えている。皇太子夫妻(当時)に待望のお子様が生まれたことを喜ぶ気持ちが世の中にあふれたことは間違いないが、それだけではない空気も確かにあった。「男の子」でなかったことをどう消化するのか、それぞれがそれぞれに考えた。(中略)
「男系男子は、それまでして守らなければいけないものでしょうか。」” (pp210~202)

(矢部万紀子『雅子さまの笑顔 いきづらさを超えて』幻冬舎新書)

☆☆


藤原敏之先生の誕生は明治41年(1908)のことです。それから、110年も経ったのに、皇室だけが、時代から取り残されるように「男子を産む」役割を背負わされているのは、おかしくないでしょうか。「女性・女系天皇を認めないということがどれほど女性にとって苦痛か、女は男を産まなければいけないんですか。そこを強いられることになるんですよ。」という菅野さんの言葉が心にひびきます。

「みんなの憧れ」「お手本」「女性のあるべき姿」のようにとらえられている皇后という御存在が、男子出産を強いられれば、日本はそういう国なのかと女性たちは思う、その価値観が重たくのしかかってくる、日本はそういう国でいいのでしょうか。

相撲や歌舞伎など、男子だけという文化はあることは、理解できる。しかし、皇室が必ず跡継ぎの男子を産まなければならない役割を背負わされている。それは、無理が生じている、その役割を保持し続けることは、国の進歩を停滞させ、活気を失わせます。

子供は天からの授かりものです。人間の都合で喜んだり、厄介扱いするなどはまちがっています。祝福され、喜ばれて生まれて来た子は必ず幸せになります。男でも、女でも、五体満足でも、そうでなくても、その子のかけがえのない生誕を祝福するとき、そこに本当の幸わせが表れると思います。

男でも、女でも生まれて来たことを後悔したくない、後悔させたくない、そういう日本であってほしい、そういう国を子孫に引き継ぎたいと、強く思います。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
台風が近づいているようです。皆様、どうぞお気をつけて、平穏な週末をお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。


タグ:女系天皇
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何があってもありがとうございます [恩師の言葉]

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恩師というと普通は学校の先生を指すと思いますが、ここでは学校の先生に限らず人生で出会った忘れられない心の中の師について、話したいと思います。人生を変える言葉を投げかけてくれた、そんな心の中の師のお一人、藤原敏之(ふじわらとしゆき)先生の思い出を書くことにします。

私が藤原敏之先生の大ファンになったのは、先生の最晩年でした。藤原敏之先生は、生長の家という宗教の教えを説く講師でした。昭和60年~63年(1985~1988)頃、私は「生長の家」の道場がある京都の宇治別格本山で、毎月開かれていた「写経練成会」(宿泊して教えを学ぶ研修会)に、年に2,3回参加していました。2泊3日の練成会は、藤原先生の講話、写経、講話、写経というプログラムでした。写経は、生長の家のお経を書き写す行事ですが、心休まる時間でした。

藤原敏之先生のプロフィールを、著書『あなたは必ず救われる』カバー頁より、省略してご紹介します。
明治41年(1908)生れ。昭和22年(1947)生長の家地方講師拝命。昭和40年、管理職を歴任した日本生命を定年退職。余生を生長の家の教え普及に捧げることを決意。本部講師を命ぜられ、富山石川両県の教化部長を兼任、七尾練成を始めた。以来、各地の練成指導に携わる。昭和63年6月、80歳をもって本部講師を勇退とあります。

生長の家の講師ですが、定年まで日本生命で管理職を務め、社会経験豊かで、温和でバランスの取れた話しぶりの先生でした。

藤原先生のお話で、心に残っているのは「何があってもありがとうございます」と、「大根がほしいのに人参が出て来たら、大根の種を蒔けばいい」です。

今日は「何があってもありがとうございます」の話をします。「何があってもありがとうございますぢゃよ」と、80近い仙人のような風貌で、藤原先生が話していらしたお姿が今でも目に浮かびます。

藤原敏之先生は、次のように説かれています。


☆☆☆

“このように人生は神様からの尊い御使命であると同時に、自己の魂の向上のための道場でもあります。何でも「ありがとう」と感謝して受けることが肝要なのであります。生長の家は「天地一切のものに感謝せよ」との教えでありまして、都合のいいものだけや、よくしてくれるものだけに感謝するのであれば楽でありますが、そうではなく最も都合の悪いものや、自分を苦しめるものにまで感謝せよというのでありますから、ちょっとむずかしいのであります。”

(藤原敏之著『あなたは必ず救われる』(pp149~150 日本教文社)

☆☆☆


何でもありがとうございますと感謝して受けることで、運命が開けるというお話でした。他の先生からの話ですが、一日一万回ありがとうございますを唱えて、運命が開けた人の話もありました。私も先生の教えを実行しようと思い、ありがとうございます、を、通勤電車の中で唱えて、朝晩の往復で平均3500回、何日も続けたことがあります(心の中で)。それまで苦痛だった満員電車が、感謝の時間に変り、快適に過ごせるようになりました。ありがとうございます、を唱える前は、当時はやっていたウォークマンから漏れる音が騒音で不快でしたが、全然気にならなくなりました。赤ちゃんが泣いていたりすると、困ったなと思っていたのが、(子供は元気が一番、お母さん、赤ちゃんの子育てがんばって偉いですね。いい子、いい子)とテレパシーを送るようになりました。そうすると不思議と赤ちゃんの機嫌がよくなり、泣きやみます。

「ありがとうございます」光線を発していると、どこへ行っても、人と会うのが楽しくなります。近所の人との立ち話、スーパーのレジ係、コンビニの店員さん、宅配便配達員、コロナの中で働くエッセンシャルワーカーの皆さんが素晴らしい神の子に見えます。病院に行けば、先生も、看護師さんも、天使に見えてきます。「ありがとうございます」は、日常生活の中に天国を築く道だと思います。


藤原敏之先生の師に当たる、谷口雅春先生の言葉もご紹介します。

☆☆☆

“吾々を生かすのは明るい思想である。さし昇る朝日の如くさわやかな思想である。さし昇る朝日の如くさわやかな精神こそ日本精神である。”

“生命には光が必要なのである”

(谷口雅春著『生命の實相』〈愛蔵版〉第十九巻P4 日本教文社)

☆☆☆

明るい思想は、ありがとうから始まります。ありがとうのあるところ、生命が生き生きと育ちます。

ありがとうと言えば、すべての人が神の子、天使に思えると言うなら、日ごろ私が、歯に衣着せず批判している自民党議員も、統一教会も、男系派論客も、神の子で天使だと思っていますかと、疑問を抱く方があるかも知れません。

ハイ、自民党議員も、統一教会もその本質は、神の子で、天使です。釈迦を惑わす悪魔波旬(はじゅん)のように悪役を演じているだけで、その本性はまぎれもない神の子で、天使です。「魂の向上のための道場」で、人の人生修行を手助けするために、必要な役割を演じているのだと思っています。

こういうお話を思い返すと、眼に見える事象にいちいち腹を立ててわれを忘れる自分が恥ずかしくなります。つまらないことに腹を立てる自分と、本来のほがらかな神の子の自分と行ったり来たりしながら、神の子の自分に立ち返る時間を増やしていくのが、人生修行ではないかと思います。

今日は、藤原敏之先生の教えを思い返し、ささやかな体験を書かせていただきました。ありがとうは人生を開くカギだと思います。

今日も、読んでいただき、ありがとうございました。
皆様も、どうぞよい週末をお過ごしください。

タグ:生長の家
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日本の皇室は政治から離れている [上皇陛下]

20220906blogDSC_2158.JPG日本の皇室はヨーロッパなどの君主と違い、政治から離れています。
天皇は政治的対立を超えた神聖な精神的権威としての役割を担っておられます。



今日は、高森明勅監修『天皇陛下からわたしたちへのおことば』を学びたいと思います。
2017年発行ですから「天皇陛下」は、現在の上皇陛下です。
文章は、陛下の次のお言葉から始まります。

☆☆☆

〔陛下のお言葉〕
“日本の皇室はヨーロッパなどの君主と違い、政治から離れている
(昭和47年12月19日 39歳の誕生日を前に)“

“「日本の皇室はヨーロッパの君主と違い、政治から離れているのでどうということはありません。天皇陛下(昭和天皇)からかねがね、これまで時の政府がどう変わろうと、永続してきたところに意味があると聞かされています。明治以後、政治にかかわりを持たれたこともあったが、本来は政治から中立的で、それらを超えたものであり、今後もそうあらねばならないと思っています。」”

(pp23~24)
(高森明勅監修『天皇陛下からわたしたちへのおことば』双葉社)

☆☆☆


お言葉が発表された、昭和47年(1972)は、日本共産党が第33回総選挙で38議席を獲得し大躍進した年です。高森氏は“当時の共産党は今以上に天皇制に批判的であった。共産党は民主連合政権構想を打ち出し、政権入りを目指し、それに一定の現実味もかんじられたような政治情勢であった。”と述べます。

当時の日本共産党は「君主制の廃止」を綱領に掲げており、(「君主制の廃止」の課題は、2004年の綱領改定で削除されました)、日本共産党が政権を取れば、天皇制廃止になりかねないことに一定の現実味が感じられました。そんな時代背景の中で、心配して質問した記者に向かって、陛下(当時は皇太子)は、「どうということはありません」、「(天皇は)本来は政治から中立的で、それらを超えたものであり、今後もそうあらねばならない」と答えられました。

高森氏は、陛下のお言葉を次のように説明しています。


☆☆☆

“陛下のこのお考えは、一貫している。慶應義塾を創立した福沢諭吉の著作である『帝室論』及び『尊王論』は、近代日本における卓越した天皇論と言われるが、これを教科書に勉強されていたことも、その背景にあるだろう。著書の中で、福沢諭吉が説いているのは次のような考え方だ。
① 国家には世俗的な利害の対立と調整に関わる政治の領域と、それを超えた神聖な精神の領域がある。
② 世俗政治の領域は政党と議会が担当する。近代的な政党政治は、合理性の一方で激しい権力闘争や策謀も免れない。
③ その政治的対立が避けがたければこそ、そうした対立を超えた高く神聖な精神的権威によって国内の統合が守られる必要がある。皇室はそうした精神的権威としての役割を担われるべき存在だ。”
(pp24~25)
(高森明勅監修『天皇陛下からわたしたちへのおことば』双葉社)

☆☆☆


皇室は、政治的対立を超えた高く神聖な精神的権威としての役割を担われるべき、この考え方を陛下は実際に身に付けておられ、その後も、繰り返し、このような表現をされています。平成18年(2006)に6月6日にも「他国の同じような立場にある人達(ヨーロッパの君主)と比べると(天皇は)政治へのかかわり方は少なかったと思います」と述べておられます。(前掲書p25)

作家の杉田幸三氏は、天皇にとって、政党は与党だから、野党だからの区別はない、どちらにもくみしない、また敵対もしない、共産主義すら、天皇の共産党といってもいのではないかと述べていますが、私はそれを読んで深い感銘を覚えました。執筆は昭和62年(1987)ごろで日本共産党は「君主制廃止」を綱領に掲げていました(2004年に削除)。自らを滅ぼしかねない日本共産党でさえ、天皇はご自身の政党だと見ておられると知って、眼からウロコが落ちる思いでした。(『日本の覚醒』新日本協議会)

文明批評家・中島英迪氏は自著『皇室典範改正の緊急提言』(新風書房)の中で、“昭和の末期には天皇制反対を叫んで皇室に反感を持っていた諸勢力も今や影をひそめ、天皇の存在を受け容れるようになりました。共産党ですら、その綱領から「天皇制打倒」を外してしまいました。天皇制に関する限り、革新派は大きく変容したのです。平成時代の天皇は左派に取り込まれたと見えて、実はすっかり左派を取り込んだのでした”(p115)と述べています。

反共を旗印に旧統一教会とタッグを組んでいる自民党保守派の中には「天皇が左傾した」と危惧する人がいるそうですが、天皇の公平無私な人格に感化された左派(日本共産党など)が、天皇に取り込まれたのであって、その逆ではありません。そこを間違えると、道を見誤ります。政党を超越された神聖な権威である天皇の偉大さがそこにあります。

ヨーロッパなどの君主と違い、政治から離れている天皇と皇室。日本の国が色々な混乱があっても、乗り越えて来られたのは、天皇という政治的対立を超えた高く神聖な精神的権威を戴いているからだ、とあらためて感じ入りました。

私自身の日本共産党へのイメージも修正されました。政策すべてに賛成とは行きませんが、カルト統一教会と手を組んで反天皇に走っている自民党旧安倍派よりも、はるかにまともだと思います。


今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとって、心豊かな一日でありますよう、お祈り申し上げます。

タグ:日本共産党
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皇室の眼は世界に開かれている [皇室典範改正]

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猛暑のせいか8月中ほとんど咲かなかった朝顔が、9月になって咲き始めました。今年は咲かないかと思っていたので、うれしいです。

先日は、産経新聞の施光恒(せ・てるひさ)氏の記事“「愛子天皇」待望論の危うさ”
の一部を取り上げ、反論を試みました。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/archive/202208-1

同氏の記事に次の記述もあります。


“『文藝春秋』の本年7月号でも、歴史学者・小田部雄二氏らの「『愛子天皇』をあきらめない――世界は女王の時代へ。一刻も早い議論を」という鼎談(ていだん)記事が掲載されている。”

“例えば、上記の『文藝春秋』の記事は率直に言って浅薄だった。題目が示すように、欧州王室で女王が増えつつあるから、わが国の皇室もそれにならうべきだという話がほとんどだった。”

「欧州王室で女王が増えつつあるから、わが国の皇室もそれにならうべき」という話は、浅薄であると施氏は言いますが、欧州王室にならうのが果たして「浅薄」といえるのかと、考えて見ました。

昨日、「皇室ご一家」(フジテレビ9月4日(日) 5:45~6:00)の録画を見ました。毎週、録画で楽しみに見ています。

昨日は、佳子内親王殿下の、ガールスカウト日本連盟「100周年インターナショナルキャンプin戸隠」ご参加の話題でした。

☆☆
“7日、「戸隠ガールスカウトセンター」に到着された佳子さま。キャンプ場では8日まで中高生およそ90人が参加し、日本のガールスカウト運動がおととし100周年を迎えたことを記念するキャンプが開かれています。

まず、佳子さまはジェンダー平等の実現をテーマにした生徒たちの発表に、熱心に耳を傾けられました。“
(佳子さま 戸隠でキャンプファイアも ガールスカウト100周年記念で中高生と交流長野放送8/8(月) 21:01配信)
https://news.yahoo.co.jp/articles/6da9351fc3c0cb02c9564ebecea239cf397b990d
☆☆

生徒達の発表に大きな眼をまっすぐ向けて聞いていらっしゃる佳子さまの映像を見ながら、世界に開かれた「ジェンダー平等の実現」という情報に、皇室の方は深い関心をもっていられるのだと思いました。

今年の歌会始の愛子内親王の御歌が脳裏に浮かびました。

☆☆
“愛子内親王殿下
英国の学び舎に立つ時迎へ開かれそむる世界への窓“

“初めて外国の学校をご訪問になり、歴史の重みを感じさせる立派な建物を目の前にされた時、今、ここから世界が開かれようとしているというお心持ちになられました。“
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/pdf/utakai-r04.pdf
☆☆

学習院女子高等科二年生の夏休みにイギリスの「イートン・サマースクール」に御参加になられたときを詠まれた御歌です。「開かれそむる世界への窓」にはずむようなお気持ちが感じられます。

御歌から、皇族のご公務、外国の王室の方々との国際親善のご様子が眼に浮かぶ気がいたします。佳子内親王も、愛子内親王も日本の良さを世界の人々に知っていただく、素晴らしいお役目を果たされることと思います。

天皇陛下の御製も、世界を詠われています。

☆☆
“御製
世界との往き来難(がた)かる世はつづき窓開く日を偏(ひとへ)に願ふ“

“今年は、このコロナ禍が収束したその先に、今大きく落ち込んでいる世界との人々の往来が再び盛んになる日の訪れを願われるお気持ちをお詠みになりました。“
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/pdf/utakai-r04.pdf
☆☆

天皇、皇室の皆様の思いは日本だけではなく、世界の人々の幸せを願っておられます。皇室は日本国の至宝であると同時に、「世界の中の皇室」がいつも視野にあったのが、天皇であり、皇室であり、皇室をいただいてきた私たちの先祖です。

「欧州王室で女王が増えつつあるから、わが国の皇室もそれにならうべきだという話」が浅薄だと評する施氏の記事の視野の狭さが気の毒になります。

施氏が話題にしている皇室典範は、そもそも「明治十五年伊藤博文が欧州に赴いた際、オーストリアのローレンツ=フォン=シュタインから皇室の家法をつくるようすすめられた。」ことがきっかけで作ることになったものです。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=132

皇室典範の「男子限定」は、プロイセン、ベルギー、スウェーデンに習ったものです。
https://www.a-takamori.com/post/220221

皇室典範は、当初から、西洋の王室と照らし合わせながら、決められたのです。

それを令和になって、日本独自の皇室だから西洋にならう必要が無いなどと、明治の人より古臭いことを言っていたら、先人に笑われます。

日本の皇室は日本だけの独占物ではありません。世界の中の皇室、それをいつも考えていらっしゃるのが、天皇、皇室の方々です。

長野放送の8/7(日) 19:49配信では、ガールスカウトの生徒の発表「ジェンダー平等の実現」を「性別にとらわれない進路のあり方」と報道しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/73ae7bd26940453eeeb190292034f580f352b807

性別の多様性が認められることによって、男性も、女性も、マイノリティーとされる人々も、生まれ持った天分を伸び伸びと発揮できる世の中になってほしいと思います。

今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様にとってすばらしい日々であることをお祈り申し上げます。

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男系男子維持派との対話(九)―訂正とお詫び「直系の定義」 [皇室典範改正]

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一昨日、私は「直系」の定義が2通りあるとしました。これに対して、読者のTさんから、2番目の定義で、「直系」が奈良時代から使われていたと書いているが、それは誤りではないかという、コメントがありました。Tさんは、双系派です。Tさんは、「直系」を、各辞書で調べたが、明治以前の使用例が見つからなかったというのです。

私は、2番目の定義を以下のように述べました。

+++++
2つ目は、「直系」は、父祖からのものという考え方です。古典に基づく考え方です。

>直系  祖父・親・子・孫と血筋が父祖から子孫へと一直線につながる系統。
父祖〘名〙: 父と祖父。また、先祖。祖先。
※令義解(718)賦役「凡三位以上父祖兄弟子孫、及五位以上父子、並免二課一」
(コトバンク)<
+++++


例文にあげた「令義解(りょうぎのげ)」は、奈良時代の律令の注釈書ですが、説明文中に「父祖」はありますが、「直系」は、確かにありません。

私は、辞書で「直系」を引いた時に、コトバンクで「父祖」と書かれているのをみて、「父祖」をコトバンクで引いて、「父祖」の用例があるのを見て、「直系」の用例があると、すっかり勘違いしていたのでした。

当たり前の話で、「父祖」と「直系」は別の言葉であり、「直系」が奈良時代に使用されていたというのは、明らかな間違いです。読者の皆さんに、間違ったことを書いたことを、お詫び申し上げます。


では、「直系」がいつごろから使われ始めたかと言えば、それは明治の旧皇室典範以来、というのが正解です。明治以前ではありません。「男系」、「女系」が使われ始めたのも、旧皇室典範が検討され始めた時です。

ということで、一昨日の、2つ目の「直系」の説明を以下のように訂正したいと思います。


【訂正後】
+++++
2つ目は、「直系」が父系であるという考え方です。明治の旧皇室典範制定の過程で使われるようになったものと思われます
+++++


「直系」の言葉が、奈良時代から使われていたというのは、全く誤りでした。ここに訂正し、お詫び申し上げます。


Tさんとの直系に関するコメントの中で、男系男子限定思考の始まりについても、話がありました。Tさんの考えでは、確信はないけれども、皇室の皇位継承が、男子に限るとされたのは、江戸時代の「禁中並びに公家衆諸法度」からではないかということです。

かつて、私のブログでも「禁中並びに公家衆諸法度」について、「第108代・後水尾天皇(2)」と題して、取り上げました。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2020-10-17

第108代・後水尾天皇(第109代・明正天皇)(1)~(4)のブログは、以下の通りです。「禁中並びに公家衆諸法度」と、その後、「諸法度」にて禁じられていた女帝が即位された話を取り上げています。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/archive/c2306242764-1


今読み返しても、我ながら力作だったと思います。高森明勅氏著『日本の十代天皇』によれば、徳川家康のブレインだった天海僧正は、天皇を伊勢神宮の宮司にしてしまえばいい、との暴論まで述べたそうです。さすがに、家康はそれを採用しなかったものの、そこまで天皇を押さえつけようという意図が、「禁中並びに公家衆諸法度」にあったわけです。

“「禁中並びに公家衆諸法度」の第六条に「女縁者の家督相続は古今一切これ無き事」”すなわち、「女性の縁者の家督相続を、古今(過去も今も)、一切ないことにする」という、女性が一切、家督相続をしてはいけないという条文がありました。

けれども、徳川家康・秀忠が制定した「女性の家督相続は古今にない」との「法度」を、第108代・後水尾天皇が、突然の譲位と、女のお子様、興子内親王(第109代・明正天皇)の即位により、あっさり破られました。しかし、明正天皇が、徳川将軍・秀忠の直系の御孫であられたため、幕府は何も言いませんでした。

天皇、皇室を抑え込もうとした徳川家康の所業は、自民党政権のそれに重なります。安倍元総理の時から、皇室を権力で抑えつけて、思うままにしようという自民党政権のあり方は、眼に余ります。昨年12月に皇位継承に関する有識者会議が出した結論、悠仁さままでの皇位継承順位は変えない、女性天皇、女系天皇は検討しないという方針は、上皇さまがビデオメッセージで話された皇位の安定継承を切に願われるお気持ちに背くものです。

上皇さまのお気持ちが、天皇陛下の直系長子、愛子さまが皇太子になられ、次の天皇になられること、それが皇室の伝統に照らして最もふさわしいことは、日々明らかになっています。

悠仁さまは、天皇になられなくても、皇嗣であることに変わりありません。皇嗣は、皇位継承資格を表わすものですから、継承順位が変わるだけです。愛子さまが天皇になられることを、殊更に反対する理由は何もありません。

また、養子案は、養子候補者も名乗り出ないし、男系男子にこだわる限り、養子をとっても、その宮家が永続することはなく、2、3代で、行き詰まるのは眼に見えています。生まれつきの血統で、養子の資格を決めるのは、憲法が禁止している門地による差別にも抵触します。どこから考えても無理筋の案です。

男系男子の血統だけが尊いというのは、明治時代の男尊女卑に配慮した旧皇室典範を盲信している人々が作り出した都市伝説です。あるいは、徳川家康の天皇の権威を弱めようとする策謀の一環、「禁中並びに公家衆諸法度」に起因するものです。

つまり、政府が公言し、男系派が強弁する、男系継承が、日本建国以来、祖先が守り続けて来た伝統というのは、まったく事実ではありません。皇室の伝統は、男系も女系も大切にする双系です。皇位継承は、各時代の世相を反映しており、女性の社会進出が求められている現代では、女性天皇、双系に開かれることが自然であり、それこそ、国民と共に歩んでこられた皇室の伝統にかなう皇位継承なのです。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって、幸福な一日でありますよう、お祈り申し上げます。

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男系男子維持派との対話(八)―直系の定義 [皇室典範改正]

20220901blogDSC_0638.JPG再び、男系派の人(仮名Aさん)とネット上で対話(文字の意見交換)するご縁がありました。男系派との対話は、以前は緊張して、敵対心に燃えていたのですが、このごろは余裕が出来ました。「愛子天皇の道」サイトの皆さんが何でもよく知っていて、「男系派」の論理が全く破綻していること、議論が圧倒的に「愛子天皇派」に有利であることが見えて来たからです。

男系派の人と話すと新しい発見があります。

昨日、女系、男系の定義に2通りあると述べましたが、今日は「直系」という言葉にも2通りの意味があると知ったことを述べます。

男系派のAさんは、こう言います。「天皇は、天照大神の直系です。だから、男系継承が正しいのです」

男系派の口癖だった神武天皇の直系と言わないで、天照大神(女神)の直系と言うのは、進歩したと思います。古代人が、天皇を女神の子孫であると考えていたのですから、女系で始まった天皇は、女系天皇で差し支えない、となると思いますが、今日述べたいのは、そのことではありません。

「直系」は、私の頭の中では男系、女系どちらも直系なので、なぜ「天照大神の直系」を「男系」だとAさんは考えるのだろうと、不思議に思いました。

直系というのは、祖父母→子→孫のことです。これに対して傍系というのは、叔父、叔母、いとこなどです。

そこで、直系の言葉を調べ直したところ、新しい発見をしました。直系には、2通りの意味があったのです。

1つは、私の考えと同じで、法律(戸籍法)の考え方です。
https://ka-ju.co.jp/column/a_direct_line/#anc-4

父方と母方、両方の祖父母からの系統が「直系」であるという考え方です。

2つ目は、「直系」は、父祖からのものという考え方です。古典※に基づく考え方です。
※(ここで「古典」と書いたのは誤りです。文末の「追記:2022年9月3日」をご覧ください)
++++
直系  祖父・親・子・孫と血筋が父祖から子孫へと一直線につながる系統。
父祖〘名〙: 父と祖父。また、先祖。祖先。
※令義解(718)賦役「凡三位以上父祖兄弟子孫、及五位以上父子、並免二課一」
(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B4%E7%B3%BB-98414
https://kotobank.jp/word/%E7%88%B6%E7%A5%96-618603
+++++

これで、Aさんの意見の謎が解けました。Aさんは、直系が、古典にある父祖からの系統だと考え、「天照大神の直系」を天照大神の男系だと、解釈したのでした。

なお、皇室典範は現代の法律ですから、皇室典範改正に当り、古典ではなく、1、の法律の考え方による「直系」で解釈するのが、至当だと思います。

意見の異なる人との対話は、新しい発見をもたらしてくれます。意見の対立する人とも嫌がらずに話し合うことは、大切だとあらためて思いました。

昨日、初めてコオロギの声を聴きました。秋がそこまで来ています。
今日から学校が始まります。学生の皆さん、身体に気をつけて、頑張ってください。


今日も読んでいただき、有難うございました。
皆様、体調にお気をつけて、お健やかにお過ごしください。


※「追記:20222年9月3日」

2つ目の考え方で、「直系」が奈良時代に使用されていたとしましたが、9月2日に、読者から、明治時代以前の「直系」の使用例は無い、一般の使用は明治時代からではないかとのご指摘を受けたので、確認したところ、その通りでした。訂正を9月3日のブログに掲載いたしました。このブログの記述も訂正しようかと思いましたが、後々の反省材料にするために、そのまま残します。くわしくは9月3日の投稿をご参照ください。


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男系、女系の定義とは? [皇室典範改正]

20220830blogDSC_0466.JPG今日は、皇位継承における、男系、女系の定義を考えます。
いつ頃、決められたのか?
決まった定説があるのか?
どういう見方で定義が決められたのか?
などです。

天皇の皇位継承に関連して男系、女系という言葉が口にされ、2021年12月22日の政府の有識者会議報告では、女性天皇、女性宮家(女性が当主の宮家)は認めても良いが、一代限りで、配偶者や子孫は一般国民のままとすることが考えられるとしています。

+++++

“女性皇族が皇族でない男性と婚姻しても皇族の身分を
保持するという新しい制度を導入した場合、その子は皇位継承資格を持たな
いとすることが考えられます。また、配偶者と子は皇族という特別の身分を
有せず、一般国民としての権利・義務を保持し続けるものとすることが考え
られます。”(p10)

(報告 令和3年12月22日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案
に対する附帯決議」に関する有識者会議)
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/pdf/houkoku_honbun_20211222.pdf

+++++

産経新聞に“「愛子天皇」待望論の危うさ”というタイトルで、施光恒(せ・てるひさ)氏が、愛子天皇反対の文章を載せています。

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“皇統の系図をみれば、男系でつないできたのは明らかである(宮内庁ホームページにある系図がわかりやすい)。われわれの先祖は時に苦労して男系継承を守ってきた。いくたびか大きな危機もあった。例えば、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承である。武烈天皇ののちの継承者がなかなか見いだせず、このときは応神天皇(第15代)まで約200年血統をさかのぼり、越前国三国(現在の福井県坂井市)で暮らしていた子孫を見つけ出し、即位願った。”
(中略)
“倫理学者・和辻哲郎がかつて指摘したように、日本の歴史では「国民の統一、国民の総意は、いつも天皇において表現された」(『国民統合の象徴』)。「国民の総意」とは、ある一つの時代を生きる日本国民だけの意思ではない。過去に存在した歴代の日本人の意思も含まれる。われわれは皇室の伝統を学び、先人の思いを汲(く)み取らなければならない。”
(【施光恒の一筆両断】「愛子天皇」待望論の危うさ 産経WEST 2022/8/29 19:26)
https://www.sankei.com/article/20220829-PRW2SF53QNN7PPOVO5OTL7RPZM/
+++++


施氏は、“先祖が苦労して男系継承を守ってきた”と述べますが、果たしてそうでしょうか。施氏の言う「先祖」は、悠久の日本の歴史から見ればつい最近の、明治時代以後の先祖ではないのでしょうか。

男系、女系の定義が一つであるように、多くの人が思っていられるかも知れませんが、実は、学者の間では、大きく分けても2つの定義があります。

男系、女系と、施氏が上げた、いわゆる「男系派」の定義は、平成17年(2005年)以降、世間に広められた定義で、それまで、男系、女系の定義に、学者の間で、定説はありませんでした。

私は施氏の定義とは別の定義を取ります。その定義から見れば、日本が昔から、「男系継承を苦労して守ってきた」のは、[双系=男系+女系で]「皇統継承を苦労して守ってきた」であり、日本建国の頃から、皇統は男性と女性が力を合わせて継承して来たのだと思います。

施氏は、第26代・継体天皇の例をあげていますが、第25代・武烈天皇に直系の内親王(女子)がいらっしゃれば、その方が皇位を継いだ可能性があったという学説もあります。継体天皇御即位に当たって、第24代・仁賢天皇の直系のお子様、手白香皇女(たしらかのひめみこ)とのご結婚がありました。すなわち、仁賢天皇の娘婿になられたから、天皇になれたのであり、男系の血筋だけで天皇になるのは、難しかったと言えます。


男系、女系の定義について、歴史学者の田中卓氏は、著書『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』で、次のように述べています。

☆☆

“皇統に関して男系とか女系とか言い出したのは、西洋の学問を摂取した明治以来のことで、管見(私の考え)では、それ以前に議論の対象となったことはないように思う。
 特に旧『皇室典範』でで「男系ノ男子」と見える。”

“この問題は、前例がないため、皇室法の学会でも定説はないようだが、歴史的には、皇祖神の天照大神が「吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地と神勅されている通り〝天照大神を母系とする子孫〟であれば、男でも女でも、皇位につかれて何の不都合もないのである。”
(田中卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』(pp36-38)幻冬舎新書)

☆☆


日本古代史の泰斗、田中卓氏は、「男系、女系とか言い出したのは、西洋の学問を摂取した明治以来のこと」、「この問題は、前例がないため、皇室法の学会でも定説はないようだ」と述べます。

また、神道学者、高森明勅氏は、次のように述べています。双系派の定義です。

☆☆

“「女系天皇」について分かっているつもりの人でも、案外うまく整理できていないことが多い。「男系天皇」はもちろん、男性天皇の血筋をひく天皇だ。一方、女性天皇の血筋を引くのが女系天皇。ここまでは誰でも分かる。では、両親が共に天皇だった場合はどうか。具体的には、たとえば天智天皇・天武天皇のご兄弟は、父親が舒明天皇で母親は皇極天皇。こうしたケースでは〝男性優先〟の観念から、一般に〝男系〟の天皇と見られる。(中略)
ところが、父親が一般皇族で母親が天皇の場合はどうか。(中略この場合は、男女の性別よりも「天皇」という地位を重視して、女系と見るのが当たり前ではないか。そうでなければ〝天皇か皇族か〟という国家の公的秩序の根幹にかかわる区別よりも、「男尊女卑」の考え方を優先することになろう。
そして実際に、文武天皇・持統上皇の時代に制定された『大宝令』(継嗣令)では次のような条文があった。
「皇兄弟・皇子はみな親王とせよ(女帝の子もまた同じ)”
高森明勅『「女性天皇の成立」』pp118-119 幻冬舎新書

☆☆


すなわち、①男系、女系を「天皇の地位」を重視するか、②男女の性別(男尊女卑)を重視するかによって、定義が変わります。①なら、これまでの歴史の中で男系、女系の天皇がいらっしゃったことになり、②なら、すべての天皇が男系だったという、男系派の定義になります。

「皇兄弟・皇子はみな親王とせよ(女帝の子もまた同じ)

は、Aという方が天皇になられたら、A天皇の、御兄弟、皇子(男女)は、親王、内親王になられる。(A天皇が、女帝であっても、その子は親王・内親王になられる)

という意味です。御兄弟は、姉妹も含まれます。吉備内親王がそうです。


今年になって『続日本紀』を毎日少しずつ読んでいます。その中に次の文章を見つけました。

時は、靈亀元年(715年)3月、第44代元明天皇の御代です(『続日本紀』p143)。

☆☆

“丁丑(二十五日)〔天皇の〕勅があって、三品の吉備内親王の子女(父は長屋王)をすべて皇孫と同様に待遇させた。”(p161)

“二九 皇孫 吉備内親王の子女は、父系をたどると曾孫となる(天武―高市皇子―長屋王―子女)。母系をたどって皇孫とする優遇を与えたのである”(p172)
(直木孝次郎 他 訳注 『続日本紀1〔全4巻〕』東洋文庫)

☆☆

715年に、それまで「王」だった方々が、皇孫になられ、皇位継承権が与えられたことが書かれています。
吉備内親王(きびないしんのう)は、草壁皇子と第44代・元明天皇の次女で、第44代元正天皇の妹でした。第44代・聖武天皇(当時は皇太子)が病弱だったため、元明天皇の次女だった吉備内親王の子女にも、皇位継承の可能性があったので、元明天皇の孫として、皇孫とする、すなわち皇位継承権が与えられたと考えられます。

続日本紀に吉備内親王と書かれていますから、お子様方が皇孫になられる前に、内親王だったことが分かります。元明天皇のお子様で、元々皇位継承権があった吉備内親王ですが、715年から、そのお子様方も皇位継承できるように待遇させたということです。女帝の子を親王とする「継嗣令」の準用でしょうか。715年は、元正天皇即位の年ですから、それに合わせた皇孫待遇だと思います。ちなみに聖武天皇の立太子は、714年です。

吉備内親王の姉君、第44代・元正天皇の御歌について、当ブログでは4回、学ばせていただきました。よろしかったら、ご一読ください。拙文ですが、少しは、時代背景を知る手掛かりになると思います。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/archive/c2306218719-1

歴史を丁寧に見て行くと、施氏の言うように“先祖が苦労して男系継承を守ってきた”(だから女系継承は認めない)ということではなく「先祖は苦労して皇統継承をまもってきた、男系継承優先だったが、女系継承も重要だった」(男系継承が行き詰まったら、女系継承も認めるのが自然の成り行きである)というのが、事実に近いと思います。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
朝晩秋らしく、涼しくなりました。数日前からカネタタキが鳴いています。皆様、夏の疲れで体調を崩されませんよう、お健やかにお過ごしください。

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上皇陛下のおことば―民主主義について [上皇陛下]

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ミョウガの花が咲きました。清楚で可愛いです。






今日は、上皇陛下(当時は皇太子殿下)のお言葉から、民主主義について、神道学者・高森明勅氏監修のご著書『天皇陛下からわたしたちへのおことば』から、学ばせていただきます。上皇陛下が、皇太子でいらっしゃった昭和43年のおことばです。

始めに引用します。

☆☆☆

“民主主義とは人と人との信頼関係である
(昭和51年12月17日 43歳の誕生日を前に)


「民主主義とは人と人との信頼関係であると思います。それがうまく行われることが望ましい」
 このお言葉は、天皇陛下(当時は皇太子)が43歳の誕生日を前に会見で述べられたものである。
この年は首相が賄賂を受け取るという戦後最大の汚職事件「ロッキード事件」が起き、国民の政治に対する信頼が大きく揺らいでいた時期である。
民主主義においては、信頼関係は非常に重要である。それが失われると、全体主義へと走っていく。先鋭的な主張を打ち出し、閉塞感や不信感を打破してくれそうなリーダーに対して熱狂的な支持が集まる。ワイマール憲法下のドイツでは、政治が安定していないところにヒトラーが登場して悲劇的な歴史を歩んでしまった。
しばしば民主主義と君主制は対立関係にあるかのように語られがちだが、(中略)実際に民主主義がうまく機能している国は、イギリスをはじ伝統ある君主国である。そして日本も、伝統ある君主制が民主主義を安定して機能させている国のうちのひとつである。

昭和天皇は昭和21年(1946)1月1日にGHQの要求で「新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)を出されている。これは天皇が神格を否定したものだとされているが、昭和52年(1977)、昭和天皇は記者団の質問に対して、それは二義的な問題で一番大事なのは冒頭に入れてある五箇条の御誓文だという発言をされている。
五箇条の御誓文の第一条はよく知られている通りだ。
「広く会議を興し万機公論に決すべし」(会議を開いて広く意見を聞き、すべての政治のことは世論に従って決めよ)
 この五箇条の御誓文は、昭和天皇ご自身が提案して入れられたもの。民主主義というものは日本が戦争に負けてアメリカから輸入したものでは決してない。明治天皇が国是として採用されたもので、元をたどれば五箇条の御誓文にさかのぼるというお考えを持たれていたからである。
「民主主義とは人と人との信頼関係であると思います。それがうまく行われることが望ましい」という天皇陛下のおことばは、それを踏まえてのものでもある。民主主義というものは民意を政治に反映させるという意味では非常に大切ではあるが、その基盤となる信頼感が失われると危険な暴走をはじめかねない。”
(高森明勅監修『天皇陛下からわたしたちへのおことば』36~38pページ 双葉社) 

☆☆☆


政治への信頼関係が大きくゆらいでいるのは、今もそうです。統一教会と自民党政権のズブズブの関係が、どのように解消され、政治の正道に戻せるかどうかが問題です。

安倍自民政権の野党との十分な審議を拒絶するような一方的なものごとの決め方は、全体主義に似ていました。五箇条御誓文の第一条、万機公論に決すべし、の精神に反します。育ちもいい、見栄えもいい、一見閉塞感と不信感を打破してくれそうなリーダーだった安倍晋三氏に過大な期待をかけ、甘やかし、欠点を見過ごしたことが、安倍政権の権力濫用を許してしまったのだとも言えます。

失われた政治との信頼関係を築くには、どうすればよいのでしょうか。

自民党の自浄作用に期待して指を加えて待つのではなく、実効性のある対策を求めることはもちろん大切です。弁護士の皆さんの活躍、報道機関の正しい報道に期待します。

私たちに国民にもそれぞれ出来ることがあるはずです。

日本でまだ発展途上の民主主義では、国民一人一人が国会議員に意見を表明することに意味があると思います。一昔前と違って、各政党の政策について、インターネットを通じて、意見を届けることが出来ます。ホームページにメールを送ることもできます。

厳しい対応を求めるメールを送ることや、アンケートを通じて、公正な対策を求めることも必要だと思います。

批判だけでなく、私たちの日ごろの願いを、地道に各議員や政党に届けることも必要だと思います。

私は女性天皇を可能にする皇室典範改正を長年、念願しています。その希望を届ける努力の中で、政治家との信頼関係が築けたらと、思います。信頼関係といっても、統一教会や一部派閥のような、ズルズルべったりの仲間意識を持ちたいということとは違います。この人となら、大人同士の対話ができる、この人なら日本の政治を任せられるといった、プラスの意味での信頼です。

私自身の体験として、選挙の時の候補者の事務所訪問、街頭演説で声をかけたことがあります。女性天皇実現のための皇室典範改正をお願いしたのです。大げさなことではなく、事務所を訪問して少し話をし、手紙を渡しただけでした。それでも候補者に思いを届けたという手ごたえがありました。街頭演説で声をかけたときも、政治家も人間なので、投票する人から話しかけられるのは喜ばれるのだと思いました。何の団体の後押しの無い小さな個人の声でも、積み重なれば大きな力になるのだと思いました。

前の選挙の時「愛子天皇への道」のサイトでは、この事務所訪問を呼びかけ、訪問し、最後は、当選の手紙で締めくくりました。
https://aiko-sama.com/archives/15466
https://aiko-sama.com/archives/15813

今は、各議員に女性天皇実現を呼び掛けています。
https://aiko-sama.com/archives/17090


天皇陛下はいつでも国民を信頼され、人と人との信頼関係に支えられた民主主義の実現を願っておられます。その天皇陛下のお気持ちに答える為に、模索と努力を続けて参りたいと思います。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとってよい週末でありますようお祈り申し上げます。

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天皇のお気持ちを理解する [上皇陛下]

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行き詰まった時は、天皇陛下のお言葉を読むと、いつでも打開の指針が得られます。
宮内庁HPに発表される天皇陛下のお言葉は、短い中に、多くの示唆が込められています。

そんなわけで、今日は上皇陛下の平成28年(2016年)のビデオメッセージを、もう一度読み返してみました。

当ブログでは、2016年9月22日に、その年8月8日に御発表された上皇陛下のビデオメッセージについて、書かせていただきました。

「天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)を拝聴して(平成28年9月22日)」
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/archive/201609-1

自画自賛になりおこがましいですが、原稿作成に1週間かけただけあって、今読み返しても、天皇陛下のお言葉を細かく読み込もうと、一所懸命、努力していたと思います。

上皇陛下は、2010年頃から、退位と皇室典範改正のご意向を、時の政府に、宮内庁を通じて内々に示されていました。ところが、政府は一向に動こうとしなかったそうです。2016年のビデオメッセージは、頼みの綱として、国民に呼びかけられた、大げさに言えばSOSメッセージだったと、思います。政府が2010年に速やかに陛下のご意向を受けて皇室典範改正に取り組んでいれば、このような国民に宛てたメッセージは、発表されなかったのではないかと思われます。

皇位継承に天皇陛下のご意向があるという話を、ネット上で話題にしたところ、次のような質問を受けました。

「今までの皇位継承は、天皇陛下のご意向で決まってきたのでしょうか?」

今までと言われても漠然としているので、皇室典範に焦点を宛てて、明治天皇(大正天皇)以降の話をしました。

明治時代(明治22年、1889年)に制定された旧皇室典範は、皇室自律主義で、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされました。(議会の議決=国民の関与は不要でした。)


+++++

“旧皇室典範の改正又は増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ(旧皇室典範第62条)、この手続きに帝国議会の協賛又は議決は要しないとされた(大日本帝国憲法第74条)。これは、現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義の表れといってよい。”

(「皇室典範 (1889年)」 Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E5%85%B8%E7%AF%84_(1889%E5%B9%B4)

+++++


旧皇室典範は、明治天皇のご意向を熟知している皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定されました。

[言葉の意味]

〇枢密院
“枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮詢機関。憲法および憲法付属の法令、緊急勅令、条約等について天皇の諮問に応ずる機関でその性質上「憲法の番人」とも呼ばれた[1]。1888年(明治21年)に明治憲法草案審議のために創設され、1947年(昭和22年)5月2日、翌日の日本国憲法施行に伴い廃止。”
(「枢密院」Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E5%AF%86%E9%99%A2_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

〇諮詢(しじゅん)
“参考として他の機関などに意見を問い求めること。諮問。「案件について—する」”
(Weblio辞書)

〇勅定(ちょくじょう)
“天子がみずから定めたこと。また、天子の命令。勅命”
(Weblio辞書)

旧皇室典範は、皇族会議と天皇の諮問機関に意見を求めて、天皇の御命令(勅命)で決められたということです。

皇位継承は、側近が明治天皇のご意向を十分に汲んで検討された『旧皇室典範』に基づいて決まってきたので、大正天皇、昭和天皇、上皇陛下は「天皇陛下のご意向で決まってきた」と考えていいと思います。

天皇お一人の独断でないことは、五か条の御誓文第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の精神で、皇族会議で皇族の意見、諮問会議で側近の意見を取り入れられたことは言うまでもありません。

現在の天皇(今上陛下)の御即位は、昭和22年に制定された「皇室典範」に基づいて決まりました。

旧皇室典範は「現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義」とされ、大日本帝国憲法下の「帝国議会の協賛又は議決は要しない」典範でした。皇室の家法という性格のものでした。

言い換えれば、現皇室典範(昭和22年制定)の改正は「国会(議会)の議決を要する」ので、皇室自律主義ではないことになります。国民の代表が集まった議会の議決が必要だということです。

皇室(天皇)が女系天皇にしたいと思われても、国民の賛成(国会の議決)が無ければ、皇室の意向が通らないような皇室典範になっている、だから、天皇のご意向が通りにくくなっています。新皇室典範は、制定当時、日本を占領していたGHQの強い意向により、国民の意向で皇室のことを変えられる形になりました。


+++++

「昭和22年1月16日法律第3号」の法令番号を持つ2020年(令和2年)現在の皇室典範は「法律」として1947年(昭和22年)1月16日に公布された。他の法律と同様にその改正は国会の議決で行われることにより、皇室の制度そのものに国民の民意が国会を通じて関与することとなった。これは、制定当時、日本を占領していたGHQの強い意向によるものである。
(「皇室典範」Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E5%85%B8%E7%AF%84

+++++


旧皇室典範は大日本帝国憲法から自律 → 国民は関与しない

現皇室典範は日本国憲法下にある → 国民の意向でどうにでもできる

という感じです。

つまり、国民が皇位継承のための皇室典範改正に関与するのは、今回が、歴史上、初めてだと言えます。

だから、国民一人一人が天皇のお気持ち(ご意向)を理解することが大切になります。

今上陛下は男性であり、現皇室典範で問題なかったのですが、天皇陛下の長子(愛子内親王)は女性です。このような現皇室典範の不備が明らかになり、上皇陛下が改正を望まれました。上皇陛下のご意向を受けて設けられたのが2005年に報告書を提出した「皇室典範に関する有識者会議」です。今上陛下も上皇陛下のご意向を共にされています。

2016年の上皇陛下(当時は天皇)のビデオメッセージにある「国民の理解を得られることを、切に願っています」の短い一言は、こうした旧皇室典範と、新皇室典範の位置づけに関連します。

☆☆☆

“象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを,切に願っています。“

(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)宮内庁ホームページ」
https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

☆☆☆


上皇陛下は、そして、国民の皆さんは、皇室が存続した方がよいですか、存続を望まないですか、存続を望むなら、皇位継承の不安定な現状を知り、安定継承に何が必要なのか真剣に考えてくれませんか、と私達一人一人に問いかけていらっしゃるような気がいたします。

表面は、退位のお気持ちの理解を求め、皇室典範改正してほしいというメッセージですが、さらに安定的な皇位継承に向けた皇室典範改正のお気持ちにも国民の理解を得たいという、メッセージから、国民と共に歩まれる、皇室を理解してほしいという、天皇のお気持ちがひしひしと伝わって参ります。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
朝晩、少し涼しくなりました。季節の変わり目、どうぞ皆様お健やかにお過ごしください。

タグ:皇室典範
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女系天皇排除は人種差別と同じ [皇室典範改正]

20220823blogPICT1133.JPG男系派は、「女系天皇は絶対ダメ」と言います。そして、国民は男系と女系の違いを理解していないから、女性天皇、女系天皇に賛成するのだと主張します。

実は「男系」と「女系」を歴然と区別し女系を忌み嫌う思想は、2005年小泉内閣の皇位継承を検討する有識者会議の報告に反対した男系派が大声で言い始めたことで、それまでは、専門家以外ほとんど耳にしたことのない区別です。

男系派の言う男系、女系の定義は以下の通りです。

「女性天皇」とは女性の天皇のこと
「女系天皇」とは「父親が皇統(天皇の血統)に属さない天皇」
「母親しか皇統(天皇の血統)に属さない天皇」のこと

実は、この女系の定義は、人種差別の定義と同じ考えに基づくものなのですが、それを指摘する人は、男系派にはいません。

女系反対と声高に言うのは、女性は男性より一段低いと考える女性差別思想であることに、気がついていないようです。

人種差別と、女系天皇の定義を比べて見ます。


白人の黒人差別を例に上げます。人種差別のことを書くのは本当に嫌です。私は、地球上からすべての人種差別が無くなってほしいと強く願っています。人種差別が無くなってほしいとの願いから、書かせていただきます。

ここに祖先がずっと白人で続いて来た家系があるとします。その家系に黒人の先祖が一人でも入ったら、その子孫はすべて「黒人」だとされます。逆を考えて、ずっと黒人で続いて来た家系に白人の先祖が一人あったら、その子孫は「白人」と言えるはずですが、現実はそうなっていません。子孫は「黒人」とみなされます。

なぜそうなるかというと、黒人は白人より一段劣っている、だから黒人の血が一滴でも入ったら、その子孫は「黒人」になるという人種差別があるからです。これをワンドロップ・ルールと言います。


++++

“ワンドロップ・ルール(one-drop rule)とは、黒人の血が一滴でも混ざっていれば、その人物を「黒人」と分類する法的な人種分類です。アメリカ合衆国の多くの州では1910年代から1960年代までこの制度を採用していました。”

“1924年の「人種純血保全法(Racial Integrity Act)」は白人と非白人の結婚を禁止する目的で作られた法律で、このとき黒人の血が一滴も混ざっていない者が「白人」となりました。”

(「【ワンドロップ・ルールとは】その意味・ジムクロウ法との関係を解説」リベラルアーツガイド)
https://liberal-arts-guide.com/one-drop-rule/

++++


黒人と白人が先祖であれば、子孫はすべて黒人であるというのは、どう考えても不条理なルールです。

男系派の言うところの「女系反対」は、このワンドロップ・ルールに酷似しています。

男系でずっと続いて来た天皇の家系を、一人でも女系で生まれた方が継げば、その子孫は、すべて女系の子孫であるとする。

もし、ここで男女差別、女性は男性より劣っているという心が無ければ、次のようにも言えるはずです。

女系で続いて来た天皇の家系を、一人でも男系で生まれた方が継げば、その子孫はすべて男系の子孫であるとする。

コトバ遊びのようになってしまいますが、それで初めて平等だと言えると思います。

細かく言えば、黒人の家系に白人が一人いても、白人の家系に黒人が一人いても、その子孫は、いずれも白人と黒人両方の血を継いでいることになります。いずれにしても、平等にものごとを考えてほしいと思います。

肌の色で差別するのはよくないことですが、男女の差別もよくありません。

ところが、男系、女系について、男女差別の概念を持ち込んだのが、男系派です。男系になったり、女系になったりする場合、精確には「双系」だということができます。

そして彼らの言うところの、これまで続いて来た男系継承は、近世以前は、男系→双系→双系→男系というように、両親とも天皇の血筋を引いている場合も多かったのです。


皇位継承において「男系継承は2000年続いた日本の伝統」と考えている人は多いと思います。

けれども、歴史を詳細に学びますと、男系継承は2000年以上続いてきたとしても、それが日本の伝統だったと言い切るのは、精確な表現ではありません。

おおざっぱに整理しますと、皇位継承を支えた社会の変遷は、次のようになります。

1、2600年前 ~ (日本誕生、神武天皇即位)双系社会
2、1400年前(西暦645年)~ 明治22年(1989年) (男女の法制定)男系優先社会
3、133年前(西暦1989年)~ 現在(旧皇室典範制定以後)男系優先社会、皇位について男系男子限定が決められる

1、は神話の時代なので、考古学的に証明されていない伝承ですが、歴史が記録される以前でも1000年以上の長い期間があったとされています。


前回のブログに書いた通り、皇位継承が男系男子に明文化されたのは、明治の皇室典範が始まりです。
https://onkochisin.blog.ss-blog.jp/2022-08-18


男系継承が2000年以上続いたのは、日本人の先祖が男系を何が何でも続けなければと死守して来たのではなく、男系優先社会が長年続いた中で、側室制度に支えられ、男系優先の「慣習」を続けることができたというのが、精確な言い方だと思います。

側室制度が廃止された時、男系限定継承も、いずれ続かなくなる運命だったのです。

明治政府もそれを見越して、女系容認案を皇室典範の原案に盛り込んでいましたが、明治時代には、一夫多妻が珍しくなかったこと、明治天皇に男子の皇太子(後の大正天皇)が既にいらして、その方に皇位を継いでいただくことを想定し、最終的に男系男子限定が採用されたのです。

令和では、一夫多妻などと言ったら、大変なことになります。そして、天皇陛下の直系のお子様の愛子内親王がいらっしゃいます。悠仁親王は、天皇陛下の甥御さまで傍系になります。お父様の礼宮殿下も素晴らしい方ですが、日々、天皇の背中を見て成長された愛子内親王に皇太子になっていただくのが、最も自然なことと、上皇陛下も考えていらっしゃったと、拝察申し上げます。


いずれにしても、男系派が主張する女系天皇絶対反対の考え方は、人種差別のワンドロップ・ルールと同じです。ワンドロップ・ルールに基づく女系天皇拒否の男系派の思想は、なんびとも差別されない天皇陛下の大御心に、ほど遠い思想なのだと思います。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
また暑さがぶり返して来ました。皆様お身体にお気をつけて夏を乗り切ってください。お元気で!


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天皇の御歌(76)―第77代・後白河天皇(2) [後白河天皇]

20220821blogDSC_1791.JPG猛暑のためか今年の朝顔は少ないです。これは昨年の朝顔です。









今日は、第77代・後白河天皇の御歌を学ばせていただきます。2回目です。

御在世:1127―1192(崩御・66歳)
御在位:1155―1158(29歳~32歳)

[以下における院政期間 1158~1192(32歳~66歳)]
第78代・二條天皇の御在位期間
第79代・六條天皇の御在位期間
第80代・高倉天皇の御在位期間
第81代・安徳天皇の御在位期間
第82代・後鳥羽天皇の御在位中期まで

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、後白河天皇の御歌(御製)を学び始めましたが、ブログを中断している間にドラマは進行し、第83代、順徳天皇の御代になってしまいました。大河ドラマを見ていらした方は、源頼朝の頃を思い出して、お読みください。

鎌倉幕府を開いた源頼朝に「日本一の大天狗」と言わしめた後白河天皇。保元の乱を経て、藤原家の摂関政治が力を失い、平家が実権を握るが、ほどなく源氏に敗れて、源頼朝が鎌倉幕府を開くという、権力が摂関政治から武家政治に移るとい、激動の時代を生き抜かれた天皇です。

国の政治体制変革の動乱を経ても、日本が分裂することなく存続した背景には、後白河天皇の神仏への祈りと叡慮に基づく差配があったのだと思います。

その一つのあらわれが、歴代上皇最多と言われる33回または34回の熊野詣ではなかったのではないでしょうか。

なお、熊野詣を始められたのは、上皇になられてからのことですが、天皇の御歌を学ぶというブログなので、文中では後白河天皇と表記します。どうぞご了承ください。


☆☆☆

“後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の33回もしくは34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態なのでした。熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです。”

(「歴代上皇最多となる33度もしくは34度に及ぶ熊野詣」みくまのネット)
https://www.mikumano.net/setsuwa/gosira.html

☆☆☆


今日は、その熊野詣の折に後白河天皇が詠まれた御歌を3首、学ばせていただきます。


☆☆☆

神祇のこゝろを

いはしろの 松のちぎりをむすび置きて 萬代(よろづよ)までの 恵(めぐみ)をぞまつ

熊野御幸(ごこう)(熊野三山への御参詣。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽各上皇は屡(しばしば)行幸あらせられた)三十二度(たび)の時、御前にておぼしめしつゞけさせ給うける

わするなよ 雲は都を へだつとも なれてひさしき みくま野の月(以上、玉葉集)

後白河院、熊野の御幸、三十三度になりける時、みもとといふ所にて、つげ申させ給ひける

有漏よりも 無漏に入りぬる 道なれば 是ぞ佛の みもと成(なる)べき
(*有漏=煩悩の世界 無漏=悟りの世界)(風雅集)

(pp103~104)
(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆


言葉の意味:

神祇(じんぎ):① 天神(てんしん)と地祇(ちぎ)。天つ神と国つ神。天地の神々。(コトバンク)

いはしろの松:和歌山県南西部、みなべ町の浜の松。有間皇子にちなむ結び松のこと。(コトバンク)

萬代(よろづよ):限りなく長い年月。永久。永遠。(weblio)

みくま野:【三熊野】熊野三山の異称(goo辞書)

玉葉集(玉葉和歌集):第14番目の勅撰(ちょくせん)和歌集。20巻。(コトバンク)
鎌倉時代後期の勅撰和歌集(Wikipedia)

風雅集:『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。


[大意]

1首目:

有馬の皇子の故事にちなんで、由緒ある岩代の松の枝を結んで置いて、限りなく久しく続く世の恵みを待とう

2首目:

私のことを忘れないでおくれ 雲は都を熊野から隔てているが 何度も通って親しんだ 熊野三山の月よ


3首目:

みもとの地名は、煩悩の世界である有漏から悟りの世界である無漏に入る熊野の道の途上であるから 仏の御許(みもと)が成る「みもと」と名付けられたのであろうか 

[感想]

1首目

万葉集の有馬皇子の古歌が有名です。後白河天皇の本歌取りですね。


☆☆☆

“孝徳天皇の皇子 有間皇子が、謀反の罪に問われ、護送される途次、岩代で松の枝を引き結んで、
磐代の浜松が枝を引き結び
  真幸くあらばまた還り見む
家にあらば笥に盛る飯を草枕
  旅にしあれば椎の葉に盛る(万葉集)
と歌を詠み、岩代の神に自分の平安の無事を祈りました。岩代の地はその後、熊野街道の名所となりました。”
(「有間皇子結び松記念碑」みなべ観光協会)
https://www.minabe-kanko.jp/sightseeing/1130

☆☆☆

松の枝を結ぶのは「旅路や将来の平安無事を祈るまじない」とのことです。(Weblio 古語辞典)

松の枝を結んで後白河天皇は、世の安泰、限りない平安を祈られたのでしょう。
保元・平治という動乱を眼の前に、動乱が静まり平穏な世となってほしい、それが33回も熊野三山に詣でられた後白河天皇の切実な願いだったのだと思います。

2首目:

後白河天皇が熊野で仰いだ美しい月は冴えわたって慈愛深い神仏の象徴のように思われたのではないでしょうか。その月に、雲によってへだてられた都にいても見守っていていただきたいという御心ではなかったかと拝察申し上げます。


3首目:

熊野路でみもとという地に差し掛かり、「仏の御許」を連想なさって、煩悩の多い世俗から、悟りの世界に入る熊野参詣を心に刻まれたのだと思います。熊野詣の旅路の一歩一歩は、神仏に心を向かわせる旅路だったのでしょう。

天皇の御日常では宮中祭祀で神を祀られています。現代では、権威が天皇、権力が政府と政治体制がはっきりと分かれています。

しかし鎌倉時代は違いました。権力と権威の双方の頂点にいらした鎌倉時代の天皇は、公家と武家の政治の行く末、国の命運を一手に引き受けた御存在でした。如何にふるまえば国を分裂させずに治めることができるのか、ご自身の勅語や宣旨が世の中を動かしていく、誤りは即、国の行く末の誤りにつながる、そのようなお立場でした。日夜、御心を悩まされたことでしょう。その中で、都をしばし離れて神仏一筋に大御心を向けて祈られる、そういう時間のために、33度(34度)の熊野詣があったのではないかと拝察いたします。

天皇の御歌を思いつくままに学ばせていただいています。よろしかったら感想をお寄せください。また書かれている内容や用語で、疑問や訂正すべき部分がありましたら、どうぞご遠慮なくコメントをお寄せください。なお、コメントは承認制になっておりますので、公開されない場合があります。あらかじめご了承ください。


今日も読んでいただき有難うございました。
今日は少し涼しくなりました。暑い日でも、秋の気配が感じられます。
皆様にとってよい休日でありますようお祈り申し上げます。

タグ:御製
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天皇のお気持ちを拝察する [皇室典範改正]

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わが家の庭で育った初ミョウガです。馬の顔みたい、といつも思います。


皇統継承を論じることについて、知人が次のような意見を述べました。

「天皇陛下の皇統継承は、天皇ご自身がお決めになることで、国民があれこれ議論する問題ではない」

この知人は、Y染色体などを持ち出すのはもってのほかという健全な常識を持ち合わせており、男系固執派の意見には批判的です。だから天皇陛下が女系で良いと思われるなら御心のままにという考えであると推測されます。

国民があれこれ議論する問題ではないというのは、国民が黙っていても、政府が天皇陛下のお気持ちのままに「安定的な皇統継承」を実現してくれるのなら、その通りです。しかし黙っていたら、天皇陛下のお気持ちを無視して皇室の存続を危うくする人々の思いのままになってしまい、陛下の御憂慮(ご懸念)を無くすことができないから、黙っていられないのです。

現に政府は、皇室典範改正を悠仁様ご即位まで先延ばししよう、先延ばししようとグズグズしています。88歳になられた上皇陛下がどれほど御心を痛めておられるか、一向に気に掛ける様子がありません。御譲位のお気持ちをにじませた平成28年(2016年)のビデオメッセージで、上皇陛下は次のように述べておられます。

☆☆☆

“始めにも述べましたように,憲法の下もと,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを,切に願っています。”
(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)宮内庁ホームページ」
https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

☆☆☆


「象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,」というお言葉の中に込められているお気持ちを、政府はどのように受け止めているのでしょうか。

お言葉が発表されてから、早や6年が経過しましたが、「皇位継承の安定」を「皇族の減少対策」にすり替えて、安定継承は何十年も先延ばしにするつもりです。無為無策にもほどがあります。皇室が消滅して、天皇制が無くなっても、気に掛けていないと言っても過言ではありません。そうでなければ、有識者会議と政府は将来の見通しを立てることのできない無能者の集まりとしか思えません。

++++++

“現在、次世代を担う皇位継承者は秋篠宮さまの長男、悠仁さま(15)のみ。報告書は、悠仁さま以降の皇位継承は「機が熟していない」として、悠仁さまの年齢や結婚をめぐる状況を踏まえて、将来議論すべきだとした。皇族数を維持して、公的活動を維持したり、天皇の負担を軽減したりすることに主眼が置かれた。女性・女系天皇の是非などには触れなかった。”
(“女性皇族は結婚しても「皇族のまま」 皇位継承は先送り有識者会議”安倍龍太郎2021年12月22日 20時19分 朝日新聞デジタル)
https://www.asahi.com/articles/ASPDQ6D5NPDQUTFK00J.html

++++++


政府は、悠仁さまがいらっしゃるから、悠仁さまのためにと、もっともらしいことを言いますが、皇位継承者が一人だけで、その一人になられる方が、天皇制度の存続を一身に背負うのと、天皇にならなくても皇室の一員として天皇を御支えするのと、どれだけプレッシャーが違うか、想像力を働かせれば、理解できるはずです。また、典範が改正されても、悠仁様が皇位継承者候補(皇嗣)のお一人であられることに変りはありません。

上皇陛下と天皇陛下、秋篠宮殿下のお気持ちは一致しているはずです。秋篠宮殿下もお近くの方を通じて、そのお気持ちをほのめかされています。最近では、秋篠宮邸に合計37回通ったジャーナリストの江森敬治氏(『秋篠宮』の著者)が、8月7日放送の読売テレビ「そこまで言って委員会NP」で、秋篠宮殿下のお気持ちが拝察できる発言をしています。このことについて、高森明勅氏が、説明されています。


☆☆

“江森氏が、「その中に暮らしている方々が今どうお考えなのか…ということを…踏まえて」と述べておられる以上、ご自身としては“主に”秋篠宮家の方々の「お考え」を「踏まえて」いる、と理解しなければならない。


その上で、そのご意向を「踏まえた結果が」他でもない「将来的には『長子優先』を議論すべき」という問題提起になった-という脈絡になる(そもそも「長子優先」を“現在の”皇室に当てはめると、秋篠宮殿下より敬宮〔としのみや、愛子内親王〕殿下を優先することになるので、長年、秋篠宮家への密着取材を続けて来た江森氏が、そのご意向と無関係にこのような、ある意味では非礼とも言える発言をすることは、考えにくい)。


つまりストレートに言えば、秋篠宮家ご自身がそれを望んでおられることを意味する。

しかし勿論、それをテレビ番組の中で明け透けに語ることは出来ない。“

(“江森敬治氏の「長子優先」提起の背後あるものは何か?”2020年8月18日 高森明勅公式ブログ」https://www.a-takamori.com/post/220817

☆☆


天皇陛下、秋篠宮殿下のお気持ちを拝察するのに、このような間接的で遠回しなやり方しかないことを歯がゆく思います。陛下の後継者のことなのですから、ストレートなお気持ちを表明していただければありがたいと思う国民も少なくないと思います。

前向きに受けとめれば、この逆境は、天皇とは何か、日本の国にとって、国民である自分にとってどのようなご存在であるのか、一人一人が考えなければならない時だと考えることもできます。

上皇陛下のビデオメッセージのお言葉を再掲します。


☆☆☆

“皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,”
(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)宮内庁ホームページ」
https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

☆☆☆


皇室と国民は、「相たずさえて」この国の未来を築くのであって、お客さんでいてはならない、当事者意識をもつことが、求められているのだと思います。

そういうわけで、私も国民の一人として、天皇陛下のお気持ちに応える為に、安定的な皇統継承を実現する皇室典範改正を強く望み、意見を発信し続けたいと、決意を新たにしています。

今日も読んでいただき、有難うございました。
新しい今日という日が、皆様にとって幸せな一日でありますよう、お祈り申し上げます。


参考資料:

「女性天皇の成立」高森明勅 幻冬舎新書

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男系男子限定は、日本古来の伝統ではない [皇室典範改正]

20220818blogDSC_2129.JPG一昨日と別な角度からのサルスベリ。ピンクがきれいです。

男系男子限定の皇位継承は、近代の産物で、日本古来の伝統ではありません。

男系固執派は、男系男子による皇統継承を、2000年(神話を含めれば2600年)以上、続いた伝統と言いますが、それは真っ赤なウソ、ウソといって悪ければ、完全な事実誤認です。

皇位継承が男系男子限定になったのは、明治22年(1889年)の皇室典範施行以来のことで、たかだか133年前、2600年の20分の1という、近世の出来事です。

いやいや男子限定は別としても、男系継承は2000年以上続いて来た、だから女系継承はダメと、言われますか?

日本が男性優位の社会になったのは、奈良時代以降のことで1300年前です。その前、1300年間は、女性も男性と肩を並べて活躍していました。女性首長、女性家長は珍しくなく、結婚も妻問い婚で、妻の実家が強い力を持っていました。

奈良時代以降、江戸時代まで、確かに日本は男性優位社会でした。諸条件が重なって、自然な流れとして、男系継承が続いてきました。

けれども男系が女系がと、問題視されるようになったのは、実は、極めて最近のことです。

男系継承が「日本古来の伝統」というのは、現代の人々、正確に言えば皇室典範改正の議論が始まった2005年以降に、男系固執派が作り上げて、大々的に宣伝し、世間に浸透させた幻想です。

これまで諸条件が重なって続いて来たから、未来永劫続けなければならないとは限りません。男系継承は、側室が当たり前だった時代だからこそ、続けられた慣習に過ぎません。

これまで続いて来たから止められないというなら、神武天皇以来、複数の奥様を持つことが、明治天皇まで、当たり前のこととして、続いてきた側室制度も止めてはいけないことになります。しかし、大正天皇から奥様(お后)はお一人になり、昭和天皇の強いご意向により、女官制度も廃止され、お后がお一人という、新しい「伝統」が始まりました。

複数のお后を持たなければ、男系のみの継承が行き詰まるのは、生物たる人間には避けられないことです。当然の帰結として、男系限定の継承も時代とともに変わらざるを得ません。

だからこそ、ヨーロッパの王朝は、次々に、男女問わず長子優先の継承に舵を切ったのです。なぜ、日本だけ、それをためらうのでしょうか?

男系固執派は、なんだかんだと言いますが、説得力のある回答を出すことはできていません。

明治の皇室典範は、何故、男系男子限定に定められたのかということについて、神道学者・高森明勅氏が、分かりやすくブログで書いてくださっています。

高森氏のブログによれば、「男系限定」、「男子限定」はそれぞれ、日本書記とサリカ法にのっとって決められたそうです。

(“皇室典範が「男系男子」限定を採用したのはサリカ法の影響” 2022年2月20日 高森明勅ブログ)
https://www.a-takamori.com/post/220221


高森氏のブログを読んでいただければ一目瞭然ですが、私なりの要約と感想を述べて行きたいと思います。

1、 男子限定の根拠は、西欧(プロイセン、ベルギー、スウェーデン)のサリカ法(キリスト教カトリック思想に則った王位継承の考え方)

2、男系の根拠は、シナ文明の男系優先思想を取り入れた『日本書紀』

どちらも、日本古来の思想ではなく、外来思想です。

日本が外来思想を取り入れて、次々に改革を行ってきた国柄は、美点でもあります。
しかし、それを「日本古来」と思い込んでは、事実を見誤ります。

日本が新しい外来思想を取り入れるときでも、日本本来の個性を失いませんでした。

日本本来の個性は、男系至上主義でも、男子絶対優先でもありません。男性も女性も等しく尊重するのが、日本古来の伝統です。双系継承は、日本古来の伝統に深く根差した改革なのです。


追って続きを書きます。


今日も読んでいただき、有難うございました。
今日も明日も、皆様にとって素晴らしい一日でありますよう、お祈り申し上げます。


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男系固執派論客と統一教会 [皇室典範改正]

20220817blogPICT0572.JPG統一教会については、安倍元総理を狙撃した山上容疑者が、親族が統一教会に入信したために家庭を破壊され、絶望のあまり犯行に及んだこと、統一教会の霊感商法が多くの人々を不幸に陥れていること、与党自民党議員への選挙協力、約100人の秘書が統一教会から送り込まれるという政治家との関係など、多くの問題が報道されています。

全国弁連によれば、統一教会の被害相談は、1987年から2021年の24年間で計3万4537件、被害総額は1237億円、2010年以降でも相談件数2875件、被害額は138億円に及ぶそうです。(毎日新聞)

山上容疑者の家族のように破壊された家庭が、何万件もあると思うと、心が痛みます。

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“全国弁連は、87~21年に全国の消費者センターへの相談と合わせて計3万4537件の被害相談があり、被害額は約1237億円に上るとしている。コンプライアンス宣言後の10年以降でも2875件の被害相談があり、被害額は約138億円に及ぶという。”
(旧統一教会被害「法令遵守宣言後も138億円」 全国弁連指摘 8/15(月) 17:36配信
毎日新聞)
https://news.yahoo.co.jp/articles/11eabd8ab7d458441f848e082e09a4c8cc588a83

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献金の根拠として、統一教会が説く教えは、韓国はアダム国家であり、日本はエバ国家である。エバ国家たる日本は妻として、夫である「アダム国家」韓国に尽くす使命があるというものです。


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“「世界基督教統一神霊協会の関連用語」の記事における「エバ国家」の解説

日本は再臨主である文鮮明とその祖国、韓国を迫害した神にとって最も悪い国であるが、文鮮明が自分がその怨讐である日本を愛すると言って、反対する神を説き伏せて、「エバ国」という使命を与えたと言う。それが、戦後の日本の目覚しい経済発展を遂げた理由だとされる。「エバ国家」は妻として夫である「アダム国家」の韓国に尽くし、さらに「母の国」として、子供である全世界の国々を教育し、経済貢献する使命があるとされ、どこの国よりも大きな献金の要請がされる理由とされている。
(「エバ国家」Weblio)
https://www.weblio.jp/content/%E3%82%A8%E3%83%90%E5%9B%BD%E5%AE%B6

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この教えに基づいて、エバ国たる日本人から搾り取った献金が、男系維持派、自称保守論者の講演料となったのです。

さらに、統一教会は、天皇陛下が文鮮明教祖に拝跪(はいき)する儀式を執り行う、宗教団体です。


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“「文鮮明氏」を「メシア」「王の王」とみなす象徴的な、不愉快な儀式が統一教会にあることも書いておく。統一教会が四大名節と呼ぶ記念日には、早朝五時からの敬礼式という儀式があり、そこでは聖壇に座った「文氏」とその家族に対し、統一教会の主要幹部が三拝の拝礼を行う。場所はだいたい「文氏」の私邸であるアメリカ・ニュ一ヨ一ク州のイ一ストガ一デンである。その際、天皇陛下をはじめ、レ一ガン大統領、全斗換大統領ほか主要国の元首の身代りを、それぞれその国の教会幹部が担当し、文教祖一族に拝跪して全世界の主権者が文教祖に拝礼したという儀式を行うのである。”

(「六マリアの悲劇・真のサタンは文鮮明だ」
11. これが『統一教会』の秘部だ
『文藝春秋』1984年7月 134-151頁
これが『統一教会』の秘部だ – 世界日報事件で『追放』された側の告発)
https://xn--u9j9e9gvb768yqnbn90c.com/%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8C%E3%80%8E%E7%B5%B1%E4%B8%80%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%80%8F%E3%81%AE%E7%A7%98%E9%83%A8%E3%81%A0/

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ここまで、日本国、天皇陛下を侮辱する宗教だったことを知って、驚いています。

さらに驚くべきことは、何人もの男系固執派論客、いわゆる保守派論客が、統一教会で講演を行ったことです。論客の名前と写真が「ゴー宣ネット道場ブログ」に、公開されています。講演内容は確かめていませんが、日ごろ強弁している女性天皇・女系天皇反対を説かないはずはありません。男系固執論は、統一教会の信者の純朴な脳に、浸透したことでしょう。

https://www.gosen-dojo.com/blog/36330/
(「統一教会で講演をした男系固執派論客2022.8.17 10:32」

反日・反天皇の教えを説く統一教会に、日本の皇室の後継者の決め方(皇統継承)という重大事について協力を求めるとは愚かの極みで、開いた口がふさがりません。なりふりかまわない恥ずべき行為だと言えます。

どんな所でも頼まれれば講演するというなら、例えば、反天皇で話題になっている表現の不自由展でも、講演を頼まれたら、顔を出すというのでしょうか。それは無いと思います。

その上、男系固執保守論者は、山下容疑者の母親のような日本人信者から搾取したお金から講演料をもらって、日本の国益を損なう団体の宣伝に協力して来たことにもなります。

統一教会が反日・反天皇を説いていることを知らなかったでは済まされません。本当に知らなかったのなら、お人好し、間抜けの極みです。言論活動を続けるつもりなら、各論者は統一教会との関係を説明すべきではないでしょうか。説明できないのなら、反日・反天皇団体である統一教会の広告塔になったことを恥じて、二度と保守を名乗らないでほしいと思います。

「ゴー宣ネット道場」ブログで、トッキー氏が次のように書いていますが、全く同感です。


+++++

“統一協会が政治に浸透し、
女性天皇の誕生を阻止し、
皇統断絶目前の危機を招いてしまったか。“

(「有田芳生氏も読んだ『集金奴隷』、「空白の30年」は余りにも大きい!」2022.8.17 12:27)
https://www.gosen-dojo.com/blog/36341/

+++++

ネットで、女性天皇、女系天皇を話題にすると、多数の男系固執派が執拗に攻撃してきますが、統一教会の信者が少なからず、参戦しているのでしょう。

日本国民の8割が賛成し、容認している女性天皇の検討が一向に進まない裏に、男系固執論者に扇動された統一教会信者たちの妨害があり、政府案に影響を及ぼしているとは、想像もつきませんでした。油断も隙もありません。

皇室を滅ぼす男系固執派の策謀を打ち砕かなければ、日本の将来はありません。道は困難ですが、希望を持って前進して参りたいと思います。

「愛子天皇への道」サイトでは、【論破祭り】を開催しています。非常識な男系固執論者を論破する庶民の声がさく裂しています。ぜひ、ご一読ください。
https://aiko-sama.com/


今日も読んでいただき、有難うございました。
猛暑が続いています。無理せずに、十分な休養を取って、お元気にお過ごしください。

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心機一転 [ブログについて]

20220816blogDSC_2135.JPG街中、どこに行ってもサルスベリが目立ちます。落ちていた花をカップに入れたら、一週間くらい色が鮮やか。百日紅の名前にふさわしい、長持ちぶりです。


残暑お見舞い申し上げます。

ブログ更新が滞って、3か月経ちました。公私ともに色々なことがあって、更新できないでいました。

ロシアのウクライナ侵攻、新型コロナのワク後症候群、安倍元総理の銃撃事件、自民党の統一教会との問題発覚。変化の激しい昨今、新しく学ぶことが多すぎて、眼が回りそうです。

様々な問題が噴出する中、問題に真正面から解決に取り組む人々、例えば子供へのワクチン接種に警鐘を鳴らした勇気ある人々の姿に胸を熱くする日々でもありました。

言論の自由が保障されていると思っていたyou tubeが、言論統制を行っていたことも驚きましたが、言論統制にめげずに情報発信を続けた各国のyou tuberの工夫にも、感心しました。

困難なことが起こると、それを切り抜けようと努力する人々が現れる。困難な時代が人物を育てるとも言えます。こうして人類は歴史を積み重ねてきたのでしょう。


コロナ禍、ウクライナ侵攻、統一教会、皇統継承、様々な問題が起こる中で、漫画家小林よしのり氏の存在の大きさが、際立って感じられた日々でもありました。

小林氏が、漫画家だということ、個性が強いことで、今まで何となく控えめに書いてきましたが、私は、小林よしのりという思想家は、日本歴史に必ず残る大人物だと考えています。

小林よしのり氏の漫画は、「ゴーマニズム宣言」連載開始の頃から、ほとんど読んで来たと思います。「オウム真理教」に対峙した頃、薬害エイズ、「戦争論」、「天皇論」どれも、目からウロコが落ちる思いで読んできました。

というと、小林よしのり信者と冷やかされそうですが、盲目的信者ではありません。尊敬する思想家です。小林よしのり氏の主張が、一つ一つ腑に落ちるので、共感しているだけです。

小林よしのり氏が主宰する「ゴー宣ネット道場」の三大目標というのがあります。
https://www.gosen-dojo.com/blog/25460/

「男女双系皇位継承」・「女性の地位向上」・「国民の手による立憲的憲法改正」です。

どれも、心おどる目標です。できる範囲で、加勢して行きたいです。

世の中、色々ありますが、人間として生きていることは、楽しいことです。
今朝、ゴミ捨てに家を出た時、お隣さんの笑顔に心が癒されました。お年を召した方の柔和な笑顔は、仏様のように尊い気がいたしました。

今日から、心機一転、新しい希望を抱いて、日々、明るく楽しく生きて参りたいと思います。
同時に、間違っていると思うことは、これまで通り、率直に発信を続けて参ります。
心に思いをため込まないことは、生きる上で、必要なことですから。

今日も読んでいただき有難うございました。
暑い日が続きますが、どうぞお身体にお気をつけて、お健やかにお過ごしください。


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万策尽きている男系維持論(2) [皇室典範改正]

20220524blog DSC_2066.JPG一昨日の続きです。一昨日は、「男系男子」の皇統継承を継続するための方策①~④までをあげました。

① 天皇、男性皇族が、側室を持つ
② 妃、皇后は、男子誕生まで、10人でも20人でも子供を産み続ける
③ 男子が産めない妃、皇后は離婚して、男子を産む女性に当たるまで離婚、結婚を繰り返す
④ 男系男子がいなくなる都度、男系の血筋に属する男系男子を、厖大な国民の間から探し出して、養子に迎える

①~③はできないが、④ならできるのではないかという男系論者は考えるでしょう。

実際に、政府有識者会議の報告書では、「皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする」案「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること」という、2つの案が提示されています。

(「皇位継承に関する有識者会議の報告書要旨」日本経済新聞2021年12月22日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2234L0S1A221C2000000/


「男系男子がいなくなる都度、男系の血筋に属する男子を、膨大な国民の間から探し出して、養子に迎える」案について、3つの高いハードルがあります。

男子論者は、そのハードルを越える、現実的な方策を、持ち合わせているのでしょうか。


第1のハードル

男系男子の血筋で、皇室に入りたいという候補者があらわれるでしょうか。この話題が出てから17年経ちましたが、具体的な候補者はただの一人も、確認されていません。
(旧宮家の子孫、竹田恒泰氏も、候補者にならないと言っています。竹田氏によれば、男系男子を続けるために4つの宮家が必要とのことですが、一人さえ、候補者がいないのが現状です)

第2のハードル

第1のハードルをこえて、養子の候補者があらわれたとしても、その養子を迎え入れられる宮家があるでしょうか。様々な条件を考えると、きわめて難しいと思われます。


第3のハードル
2つのハードルを越えて、候補者が4名あらわれて、養子をとってもよいという宮家があらわれたとしても、憲法という第3のハードルがあります。

旧宮家の養子縁組プランは憲法が禁じる「門地による差別」(第14条第1項)に該当します。(門地とは出自、家柄のことです。)憲法違反では、皇統継承を決めることはできません。憲法問題をクリアーできるのでしょうか?


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“政府が唱える旧宮家の養子縁組プランは憲法が禁じる「門地による差別」(第14条第1項)に当たる。よって制度化は無理。”
(「旧宮家「養子縁組」プランは“門地による差別”で一発アウト」2022年4月13日 高森明勅公式ブログ)
https://www.a-takamori.com/post/220413

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「第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」


第3のハードルを超えなければ、日本国民は、憲法に違反する天皇、皇室を戴くことになります。それは日本国憲法の基盤(第九十九条)を崩壊させることになります。

これは、非常に高いハードルです。

男系論者は、3つのハードルを、現実的に越えられる方策を持っているのでしょうか。

3つのすべてを越えられなければ、④は、①~③と同様、実現不可能だと思います。

「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること」案も、3つ目のハードルを越えられないと思います。

悠仁親王のご即位をゆるがせないことに固執すれば、天皇、皇室の皆様を、不安定な境遇の中に置き続けて、いつまでも苦しめることになります。イデオロギー(頭で考えた理屈)ではなく、人情を大切にする立場で、考えて参りたいと思います。


今日も読んでいただき、ありがとうございました。
緑が日増しに濃くなって、散歩すると花々がよろこんでいるようです。どうぞ、皆様、お身体に気をつけて、お元気にお過ごしください。
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万策尽きている男系維持論 [皇室典範改正]

20220522blog DSC_2067.JPG本年、4月29日のブログ「皇位継承を巡る男系派と女系派の対立は幻想」において、男系論者といわれる学者等、百地章氏、八木秀次氏、新田均氏、宇山卓栄氏も、それぞれの著書で異口同音に「万策尽きれば、女系継承も有り得る」と述べていることを紹介しました。



5月15日に「ゴー宣ネット道場」で『よしりん十番勝負「国家再生会議」』をライブで視聴しました。ゲストの藤井聡氏が、「可能な限り男系、万策尽きたときに直系」と何度も繰り返していました。

「国家再生会議」の白熱した議論の様子は「愛子天皇への道」ブログの感想から伺い知ることが出来ます。(以下は、そのうちの最新の2つの投稿です)

https://aiko-sama.com/archives/11881
https://aiko-sama.com/archives/11871


藤井氏はまだ「万策尽き」ていないと見ているようです。有識者会議の報告書には、「天皇陛下から、秋篠宮さま、悠仁さまという流れをゆるがせにしてはならない」とありますが、果たしてそうでしょうか。

男系維持は、もはや万策尽きており、直系、双系継承公認に舵を切る時が、既に到来しています。遅きに失しているくらいです。

有識者会議の報告書には、「天皇陛下から、秋篠宮さま、悠仁さまという流れをゆるがせにしてはならない」とありますが、果たしてそうでしょうか。

「流れをゆるがせにしない」ことにこだわって、皇族の皆様にしわよせがおよび、不安定で不便な境遇をこれ以上、耐え忍んでいただき、皇族の人間性を踏みにじるような結果になるとしたら、「ゆるがせにしない」ことが、皇族を不幸に陥れるとしたら、それはじわじわと天皇制を危機におとしいれることになります。

過去の歴史にこだわる気持ちはわかりますが、現実をみて、「男系に固執し皇室が消滅」と「女系を認めて存続」の2つの選択しかないのが、明白なのに、改革をためらって、皇族を苦しめて、結果的に「皇室が消滅」を選ぶようなおろかなことは、避けなければならないと思います。

「悠仁様のご即位を待つ」のでは、手遅れなのです。ご即位を待てば、女性皇族の佳子内親王、愛子内親王は、ご結婚のため臣籍降下されて、一般国民になられているでしょう。三笠宮家の彬子女王、瑤子女王、高円宮家の承子女王は、失礼を承知で申し上げれば、ご結婚されないで皇室に残られているかも知れませんが、お子様を持たれるのは難しいご年齢だと思います。

そのような若い皇族がきわめて少ない中で、悠仁親王に嫁がれる女性が現れるでしょうか。薄氷を踏むよりも、あやうい状態で、悠仁親王(天皇)の男子誕生を待つということになります。そのような立場になることが分かっていて、悠仁親王と結婚しようという女性が現れるでしょうか。


有識者会議は女性宮家の案も考えているという体裁をとっていますが、政府案では、女性皇族が皇族のままで、その配偶者とお子様は皇族にしない、一般国民のままということになっています。

このような家族をバラバラに解体する案で、女性皇族に、皇族のままで、とどまっていてくださいというのは、あまりにも厚かましいお願いではないでしょうか。

配偶者とお子様が一般国民であるなら、職業選択の自由、移動の自由など、国民が享受するあらゆる自由を認めなければ、差別になります。天皇、皇族は、憲法第1章の待遇で、基本的人権の制限がありますが、一般国民なら、憲法第3章の一般国民の基本的人権をすべて認めなければ、憲法違反になります。

配偶者とお子様は、議員に立候補してもよいし、企業の社長にもなれます。好きな時に好きな所に旅行に行くことができます。皇族ではないので、職業に皇室の公務を必ず選ばなければならないという義務はありません。選択の自由があります。

国際親善を行おうとしても、配偶者とお子様の待遇は一般国民ですから、海外での席次もそのように配慮されるでしょう。夫婦で待遇の差別を求めるような恥ずかしいことでは、国際親善も安心して行えません。

有識者会議の提案は、非現実的で、実現性がありません。まともな判断ができる人なら、女性皇族と結婚して、そんな不便で、わけのわからない立場になりたいとは、思いません。女性皇族のご結婚は、たいへんな困難に突き当たるでしょう。


男系男子の継承を維持するために、高森明勅氏は、あえてシミュレーションを行いました。その内容は、以下の通りです。

男系派の皇位継承策を実行するには、下記の①~④くらいしか考えられません。

① ~④のどれか一つでも実行したら、国民の尊敬に値する、皇室の神聖性が保たれなくなるでしょう。


「男系男子」の皇統継承を継続するための方策は、

① 天皇、男性皇族が、側室を持つ
② 妃、皇后は、男子誕生まで、10人でも20人でも子供を産み続ける
③ 男子が産めない妃、皇后は離婚して、男子を産む女性に当たるまで離婚、結婚を繰り返す
④ 男系男子がいなくなる都度、男系の血筋に属する男系男子を、厖大な国民の間から探し出して、養子に迎える


これらの方策によって、皇室の聖域性が保たれるでしょうか。どれを実行しても、聖域性が保たれずに、国民の皇室不要論を後押しするだけだと思います。

① ~④以外に、男系男子を継続できる方法はありません。いいかえれば、男系男子維持は、既に、明白に、とっくの昔に、万策尽きているのです。

参考:
『皇室の聖域性を損なう安定策は除外「皇位の安定継承への道」#13』
https://www.nicovideo.jp/watch/so40492805


この問題については、近日中に続きを書きたいと思います。


今日も読んでいただきありがとうございました。
初夏になり、新緑が美しいです。外ではマスクをはずして、思いっきり深呼吸をしましょう!
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