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天皇の御歌(70)―第10代・崇神天皇 [崇神天皇]

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前々から気になっていた第10代・崇神天皇の御事績と御歌を学びます。

御在世:B.C.148―B.C.30(崩御・118歳)
御在位:B.C.97―B.C.30(51歳~118歳)

なぜ崇神天皇が気になっていたかと申しますと、初代・神武天皇と同じ「ハツクニシラススメラミコト」というお名前を以て呼ばれているからです。

神武天皇:始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)

崇神天皇:御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)

と、漢字は異なっていますが。

ハツクニシラススメラミコトと呼ばれたのは、新しい時代を切り開かれたからだと思い、崇神天皇の御代にどのようなことがあったのか、興味を覚えました。


☆☆☆

崇神天皇は、御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと)と申し上げ、第九代・開化(かいか)天皇の第二皇子。第二代・綏靖(すいぜい)天皇以降、八代・五百六十三年間は、神武天皇の御創業を継がれて、守勢を御事となされたが、この天皇の御代の五年、国内に疫病流行、多くの人々が死に、また治安も乱れるさまとなった。崇神天皇は、それまでの歴朝が皇居内に奉安した三種の神器のうち、八咫鏡(やたのかがみ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)との御二つを鄭重(ていちょう)に大和の笠縫(かさぬひ)にお遷しになられ、御霊代(みたましろ)として天照皇大神を奉祀せられ、さらに御鏡(みかがみ)と御劔(みつるぎ)とを模造せしめて、これを皇居内に安置せられることになった。このほか、この天皇の御代に北陸・東海・西海・丹波の四地方に四道将軍(しどうしょうぐん)が派遣され、特に皇族を用ひられて人心の収攬に当てられ、永く文武の大権が天皇に置かれる基盤を確立された。崇神天皇に対し、「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と後世から御讃へ申し上げるやうになったのも故あることであった。なほ、次の垂仁(すいにん)天皇の御代(B.C.5)に、皇大神宮を伊勢の五十鈴川のほとりに遷された。こゝへの引用は、「日本書記・巻五」に拠った。
(御陵墓は、奈良県天理市にある、山ノ邉道匂岡上陵(やまのべのみちのまがりのをかのへのみささぎ)[前方後円]と申し上げる。)
(p21)

(小田村寅二郎 小柳陽太郎 編著『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首 -』 日本教文社 昭和52年8月15日 第5版)

☆☆☆

崇神天皇の主な御事績は以下の通りです。

① それまでの歴朝が皇居内に奉安した三種の神器のうち、八咫鏡(やたのかがみ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)との御二つを鄭重に大和の笠縫(かさぬひ)にお遷しになられ、御霊代(みたましろ)として天照皇大神を奉祀せられ、御鏡と御劔とを模造せしめて、これを皇居内に安置せられたこと。
② 北陸・東海・西海・丹波の四地方に四道将軍が派遣され、特に皇族を用ひられて人心の収攬に当てられ、永く文武の大権が天皇に置かれる基盤を確立されたこと。


① は伊勢神宮の起源が、崇神天皇の御代であったことを表わしています。伊勢神宮の起源について、高森明勅氏は著書『この国の生い立ち』で次のように述べておられます。

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神宮の起源は、もとは「この宝鏡を(み)視まさむこと、当(まさ)に吾を視るがごとくすべし。与(とも)に床を同じくし殿を共にして、斎鏡(いわいのかがみ)とすべし」との皇祖の神勅(日本書紀 神代下、第九段・第二ノ一書)のままに、皇居内に奉斎していた神鏡を、皇居の外にお遷ししたのに発すると伝えられます。(崇神天皇紀、皇大神宮儀式帳等)
 天照大神は「皇祖神として、子々孫々に、祭祀の根本(神鏡の奉拝)と統治の根拠(皇位の世襲)と生産の根源(稲作の伝習)とを、明確に示された神様」(所功氏)とされます。その大神の「御霊(みたま)」(古事記)といつき奉る神鏡を、皇居の外にお遷し申し上げたことは、上古史上空前の事件に他なりません。(p112)

(高森明勅著『この国の生い立ち』PHP研究所)

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これを読んで驚きました。天照大神が天孫瓊瓊杵尊(てんそん ににぎのみこと)に下された御神勅では、三種の神器の中の宝鏡(神鏡)を、天皇と、床の同じところ同じ御殿、即ち皇居の中に安置して、斎鏡(いわいのかがみ)とすべしと仰せられたのに、その神鏡を、第十代・崇神天皇が、皇居の外にお遷ししたからです。高森氏の指摘される通り、上古史上空前の事件だったと思います。人々の驚きも大きかったことでしょう。ここに大改革が行われたといっても過言ではないと思います。

このことの意義について、高森氏は次のように述べられています。


☆☆☆

大神の伊勢への奉遷は、天皇が祭祀王的な素朴な王権の境涯を脱却し、より高次の権威と神聖性を体されて国内統治に臨まれる、国政上の新たな歴史段階に達したのに対応します。正しくそれは、統一王権の樹立を証しするもので、むしろその達成を確認する壮挙であったでしょう。その意味では、大和王権は神宮を創始奉ることによって、最終的に成立し得たといえます。(p116)
(高森明勅著『この国の生い立ち』PHP研究所)

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こうして、第10代・崇神天皇の御代に、八咫鏡(やたのかがみ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)との二つを大和の笠縫(かさぬひ)にお遷しになられ、御霊代(みたましろ)として天照皇大神を奉祀せられたこと、第11代・垂仁天皇の御代に、天照大神を奉祀せられた皇大神宮を伊勢の五十鈴川のほとりに遷されたことは、大和の国の発展の大きな基盤を築く転機となりました。

内容がとても深いので、何回かに分けて学んで参りたいと思います。

日本人の心の拠り所とされる伊勢神宮の起源と、日本の歴史の発展との関係はたいへん興味深いものがあります。


今日も読んでいただき有難うございました。
皆様にとって清々しい一日でありますようお祈り申し上げます。

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